これからも君と話をしよう

一度はここから離れたけれど、やっぱりいろんな話がしたい。

この本がすごい!2019年下半期

 昨年はとにかく、とにかく良い本にたっっくさん出会えました。上半期もいい本をいっぱい読めたけど、下半期は近年稀に見るくらい良質な読書ができました。

 毎半期恒例の「今期読んで良かった本ランキング」。前置きすらもどかしいのでサクサク紹介していきたいと思います。

「2019年に発売された本」ではなく、この時期に「私が読んだ本」なので、古い本が入ることもあるかもしれません。

 では、いってみましょう!

 

※本のAmazonリンクは、基本的にKindle版を貼っています。Kindle版がないものは紙の本のリンクです。

16位 欲望する「ことば」 

 広告会社のCEOと、大学の経営学者による共著。私はWebマーケティング系の業界にいたことがあるので、より興味深く読みました。ビジネス的な視点もアカデミック的な視点も、どちらも知ることができたのが面白かった。言葉と社会記号、フレーミングについてのくだりが特に印象的でした。

15位 誰でもできるロビイング入門 

誰でもできるロビイング入門~社会を変える技術~ (光文社新書)

誰でもできるロビイング入門~社会を変える技術~ (光文社新書)

  数年前に買って読みかけたまま放置していた本。NPO活動に取り組む友人が「日本語で書かれたロビイングの本は少ないから励みにしている」と紹介していたのをきっかけに読み進めてみました。

 ボリュームがあり、やや読むのに時間がかかったけれど、ロビイングについてはあまり知らなかったため勉強になりました。著者の明智さんだけでなく、駒崎弘樹さんや荻上チキさんなど、ほかの人の経験談も掲載されていた点も良かったです。

 国会議員や自民党の取り組みについて知れたのも有意義でした。当事者が取り組むことの大変さ、Allyの人たちの重要性も再認識。

14位 カスハラ モンスター化する「お客様」たち

  NHK勤務の友人がこの本(というか、番組)の制作に関わっているということを知り、読んでみました。

 個人的な興味から、これまでクレーマーについての本は何冊か読んだことはありましたが、この本は「本当にいたヤバい客!」のようなゴシップ的な視点ではなく、問題が起こる背景にまで視点を向けているところがさすがNHKという感じ。クレーマー本人への取材を読めたのも良かったです。

 ところで、個人的には「クレーマー」という用語の使い方が気になりました。私は、ごく一般的なクレームを入れる人のこともクレーマーと呼ぶと思っていて、悪質な人は「悪質クレーマー、モンスタークレーマー」と呼ぶと思っていましたが、この本では悪質な人だけ「クレーマー」と呼んでいるようでした。

13位 ダメOLの私が起業して1年で3億円手に入れた方法

ダメOLの私が起業して1年で3億円手に入れた方法

ダメOLの私が起業して1年で3億円手に入れた方法

 ファッション雑誌「美人百花」で著者が紹介されていてこの本を知りました。年が近いので親近感が湧く部分もありつつ、「全然ダメOLじゃないじゃん!」と思う部分も。でもたしかに、ここで紹介されているひとつひとつの要素はどれもすごい能力が必要なことではなく、とても基本的なことかもしれない。そういう、地道な積み重ねの大切さや自己肯定感について学ぶことは多い本でした。

 仕事のために女をアピールすることや、恋愛の相手を頼ることについての考え方は、読む人によって好みが分かれるかもしれないし、ポリコレ的には危ういなと思う部分はありました。でも、他にはないとても実用的な考え方ではあり、面白かったです。

12位 鴻上尚史のほがらか人生相談

鴻上尚史のほがらか人生相談 息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋

 ネットで時々話題になっている、劇作家の鴻上尚史さんによる人生相談の連載をまとめた本。

 私は鴻上さんは劇作家としては大ファンで、「第三舞台」や「虚構の劇団」のDVDもいくつも持っていますし、講演を聴きに京都まで行ったこともあります。

 鴻上さんが、日本の空気・世間について書いている論考も大好きなんですけど、この人生相談は正直そこまでもてはやされるほどかなぁ……? と思っていました。(鴻上ファンの友人も同じような意見だった)

 なんというか、私は鴻上さんのキレッキレの言葉やグイグイ引き摺り込んでいく世界観、シビれるような演出センスが大好きなので、優しく寄り添うようなこの人生相談のスタイルは、私が求めている仕事とはちょっと違うんですよね……。

 ただ、そんな私でもこの本から得たものは大きかった。1冊通して読むことで、思考方法をトレースでき、自己拡張できたことは大きかったです。

 この本を読んでいた頃、友人の相談混じりの愚痴を聞く機会があったのですが、その際に「その考え方はなかった」と言ってもらえたこともありました。

 

 ちなみに私は、岡田斗司夫オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)』が人生相談本の最高峰だと思っていて、この前も久しぶりに読み返しました。(2012年の、今年読んで良かった本の第1位に選んでいます)

 鴻上さんにしても上野千鶴子先生にしても、朝日新聞の人生相談は読み応えあるものがとても多いですね。

11位 地元がヤバい…と思ったら読む 凡人のための地域再生入門

 友人たちとの小規模な読書会を開催した際、この本が課題図書になったので読みました。「読みやすくて面白い」という友人からの評判通り、小説形式だったのであっという間に読み進められました。

 東京で働く平凡なサラリーマンの主人公が、地元で再会した同級生とひょんなことから地域活性化事業に取り組むことになった……という物語。

 お盆の時期に読みましたが、帰省してたらよりリアリティを持って読めたかもしれません。小説としてはやや駆け足で詰め込まれている感じもありましたが、著者の実際の経験がもとになっているという点もすごい。モデルになった場所にも訪れてみたいと思いました。

 また、地域再生が主題の本ではありますが、コミュニティ運営、コミュニティデザインの側面からも示唆に富む部分が多かったです。

 詳しい感想は、こちらのnoteにも書きました。

note.com

10位 学校を辞めます 51歳・ある教員の選択

学校を辞めます

学校を辞めます

  • 作者:湯本雅典
  • 出版社/メーカー: 合同出版
  • 発売日: 2019/11/14
  • メディア: Kindle

 私の、小学校3〜4年の頃の担任の先生が書いた本。著者の湯本先生は約14年前に教員の仕事を自主退職され、現在はドキュメンタリー映画を撮っています。

 この本では、私が通っていた学校の次に赴任された、荒川区の小学校での出来事がメインに書かれていました。

 個人的には、まず冒頭の内容がショッキングでした。私にとっては、小3〜4の頃は割と楽しかった時期だったから、その頃から先生はかなり思い詰めていた、ということを知ってしまったのは衝撃的でした。その一方で、「そうか、だからこそ不登校の子の苦しみにも理解があり、いじめ、友達、動物の命に関する取り組みにもあんなに心がこもっていたのか……」と腑に落ちる部分も。

 この本は、教育現場で起こった問題点を中心にしたエッセイ。薄い本で、すぐに読めました。まるで、noteやブログで時々バズっているような、ブラック企業の告発文を読んでいるような気分になりました。

 私が通っていた渋谷区の小学校のことも少し書かれていましたが、放課後の公園で遊ぶ子どもについての認識は私と大きく違うことが個人的には気になりました。(これはどちらが正しいということではなく、大人と子どもの視点の違いだと思います)

 また、私が小4の頃から先生が放課後に行っていた、居残り勉強の会「じゃがいもじゅく」がやがて私塾になった経緯も知ることができ、思わず目頭が熱くなりました。

9位 ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた

  研究者の友人がSNSで紹介していたことで知りました。一橋大学のゼミ生たちが、教授と一緒に書いた本だそうです。

 ジェンダーセクシャルマイノリティフェミニズムの入門書としての読みやすさはあるものの、適度に骨があり、ポイントはしっかり押さえられていて読み応えもありました。大学生向けの本という印象が強いものの、企業のダイバーシティ担当者にも良いかもしれません。

 個人的には、アセクシュアルの存在や「童貞いじり」の問題点についても触れられていたのが良いなと思いました。
 惜しむらくは、(紙面の都合だとは思いますが)ここで紹介されている考え方はやや一面的かなと思えたこと。欲を言うなら、もう少し賛否分かれるような、多様な意見も取り上げて欲しかったな、と思いました。

8位 この顔と生きるということ 

この顔と生きるということ

この顔と生きるということ

 ユニークフェイスの本をいくつか読んでいた矢先に、この本の発売を知りました。中学時代に立ち読みした『ジロジロ見ないで―“普通の顔”を喪った9人の物語』や、2年前に発売された『顔ニモマケズ─どんな「見た目」でも幸せになれることを証明した9人の物語』という本に出ていた方も何人か再登場していることを知り、興味を持って読みました。

 結論からいうと、これまで読んだユニークフェイスの本の中では、この本がいちばん良かったです。

 著者の岩井記者が、あざの特殊メイクをして街を歩いたときの記事も、ライターのヨッピーさんが紹介したことで話題になりましたね。(この記事の内容、本の中でも紹介されています)

withnews.jp

 この本は、見た目が特徴的な人たちへのインタビュー集。就職や恋愛でのつまづきや喜びなども垣間見れ、いろんな一社会人のエッセイとしても純粋に面白さはありました。

 また、「小人プロレス」についての是非や、「アルビノになりたい」と発信したユーチューバーの炎上など、考えさせられる論点もたくさんありました。

 顔にゆがみのあるお子さんを持つ、岩井記者の父親としての葛藤も伝わってきました。「顔について何か学校で言われてないか?」と心配することは、「君の顔は、いじめられやすい顔だ」というメッセージを含んでしまうことにもなりうる。見た目問題を抱える当事者に「内面を磨けば大丈夫」と安易に言うことは、当事者にばかり努力を押し付けることにも繋がるのではないか……

「結局、ユニークフェイスの人にはどう接すればいいのか」ということについても、私の中でもある程度の答えが出た気がします。どのようなことに傷つき、どのようなことに喜ぶかは人それぞれだし関係性によっても異なってくるということ。そんな当たり前のことを再確認した1冊でもありました。

 この本は、見た目問題に限らず、「他者とのコミュニケーションのあり方」について多方向から考えさせられる1冊でした。

7位 ケーキの切れない非行少年たち

ケーキの切れない非行少年たち(新潮新書)

ケーキの切れない非行少年たち(新潮新書)

  • 作者:宮口幸治
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/07/26
  • メディア: Kindle

 ネットの記事で話題になっていて知った本。薄く読みやすい本で一気に読んでしまったものの、内容としてはとても読みごたえがありました。

 私自身にも心当たりがある挙動があってドキッとしたり、昔、私をいじめていた男子たちももしかしたら該当していたのかも……と思えたエピソードも。確かに、不良っぽい男子の中には、忘れ物の回数が異様に多かったり、じっとしていられず教室を出ていくタイプの人もいたなぁ……。

 また、性の問題は、違法薬物や殺人などと違い「適切さ」を教えるのが難しいこと、学校の勉強以前の認知能力を鍛えることの重要性、精神科病院に連れてこられる子どもと非行少年の違いの話も興味深かったです。病院に連れてこられる子は家庭環境もそこそこ安定していて、親も「子どもを診てもらいたい」というモチベーションがあり、その点は非行少年とは違う……というのは納得。

 あと、私も働き方の文脈でたびたび言及している「第1次産業や第2次産業が減り、人間関係が苦手でも第3次産業を選ばざるを得なくなっていること」についても触れられており、その点も印象に残りました。

 

 そして、本筋と直接関係ありませんが、この本の著者は私の出身大の教授であることや、前任者の教授が亡くなられていたこともこの本で知り、驚きました。(前任の教授は、『反省させると犯罪者になります(新潮新書)』などの著書が有名な、岡本茂樹先生です)

6位 ダイエット幻想 やせること、愛されること

  SNSでも評判が良く、読書家な男友達も勧めていたので読んでみました。

 文化人類学者の著者が、「やせたい」という気持ちはどのように生まれるのかということや、理想とされる体型の歴史的変遷を明らかにしていく1冊。「ダイエット」とタイトルに入っていますが、医学的・栄養学的にどうだという話はなく、文化的な側面からアプローチしている点が面白いなと思いました。

 私はダイエットの経験はあまりありませんが、これはダイエットの本というより、SNS依存やジェンダー、承認欲求、自分らしさなど、広い意味でのコミュニケーション、生き方についての本でした。

「#MeToo」運動や芸能ネタなど、卑近な話題を扱っていてとっつきやすさもあります。

 とある広告に使われていた「Girls Power」という言葉や、「かわいさ」「若さ」についての考察も、著者の主観的な主張がやや強いかなと思う部分はありつつも、その分析には一定の説得力があるなと思ったり。

 

 近年は美容整形を肯定的に捉える人も増えており、それ自体は悪いことではないと思っています。

 ですが、「他者からまなざされること」や、「他者と比較して生きること」を自明のものとせず、そこをもう少し疑問視した方が生きやすくなるかも……? と考えることができた1冊。

 この本が出たレーベルの「ちくまプリマー新書」は、中高生向けで読みやすいだけでなく、テーマも見事に私好みのものが多いです。

5位 炎上しない企業情報発信 

 私は去年までWeb広告関係の企業に勤めており、且つ、SNSでの炎上案件にも関心があるのでとても面白く読めました。

 著者の主観は強すぎず、あくまでも「ビジネスの世界的な潮流と合致しているか」の観点からの批判が主で、いわゆる過激なフェミニズムっぽさがないのも良かったです。女性差別的かどうかだけなく、CMでの男性の扱われ方への批判も取り上げられており、バランスも取れていて良い本。異文化論としても興味深さがありました。

 この本が出たのは2018年10月。2019年は、西武そごうやLoft、献血ポスターなど様々なジェンダー広告炎上案件が起こりましたが、著者はそれぞれどう評価したかな……ということも気になりました。

 

 後半のディズニープリンセスのくだりも、想像以上に興味深いメディア批評や表象論が展開されており、女児向けアニメ論としても面白かったです。

 ディズニープリンセスだけでなく、プリキュアなどについても取り上げられています。フェミニストにもオタクにも楽しめる1冊。

(……しかし、この本でこれだけ絶賛されているディズニーが、アナ雪ステマ問題のような騒動を起こしてしまったのはとても残念)

4位 みんなの「わがまま」入門

みんなの「わがまま」入門

みんなの「わがまま」入門

  • 作者:富永京子
  • 出版社/メーカー: 左右社*
  • 発売日: 2019/10/09
  • メディア: Kindle

 この本が20年前にあればよかったのに。

 ただただ、そう思えて仕方がありませんでした。中高生時代の自分に貸したい1冊。

 この本は若い世代向けの、広義の「社会運動」の入門書。実際に中高生に向けた講演で盛り上がった内容だそうです。

「廊下が寒いのでエアコンをつけて欲しい」「売店のパンを増やして」など、卑近な「わがまま」を扱っていて平易な書き口であるものの、しっかりとポイントは押さえてある良書。「わがままを言う」ことを、困りごとを抑圧しない、ポジティブなこととして扱っていることもとても良い。

「わがまま」までいかないような「モヤモヤ」についての受け止め方も良かったです。

 例えば、「『浪人にならないために』というメッセージを出している学習塾の広告にモヤッとする」という学生さんの意見に対し、著者が「『ふつう』のキャリアを理想視してそのコースを進ませようとすることに対してモヤモヤするというのは、すばらしく社会的な着眼点。それは『大企業に勤めたほうがいい』とか『結婚して一人前』という社会規範に対する疑問とも繋がってくる」と述べていたくだりは、とても印象的でした。

 近年は、ともすると「そんなの単なる『お気持ち』案件だろう」「私企業がどのようなメッセージを打ち出そうが自由では」と一蹴されがちな中、わだかまりを社会問題として解きほぐしていくアプローチには心強さを覚えました。

 

 広義の「ダイバーシティ」や多様性、ポリコレ的な言動についても平易な言葉で触れられていて、若い世代だけでなく、多くの人におすすめできる本です。「ツンデレ」や「保育園落ちた日本死ね」など、漫画やネットスラングの引用も多く、気軽に読み進めやすい内容となっています。

 

 とはいえ「わがまま」を言うことに抵抗がある、デモも怖い、炎上もしたくない、田舎だからできることが少ない、お金もない……という人でもできることも具体的に書いてあり、一歩踏み出す勇気をもらえる1冊。

 社会問題との向き合い方に関しても「ブレていい、途中でやめてもいい」ということが書いてあり、とても励まされました。

「社会運動やデモとか、政治的なことはなんだか怖そうなイメージ」という人でも、世の中や学校・職場での不満や困りごとがあるひとは多いはず。些細な困りごとをどう解決していけばいいか、異なる他者とどのようにすり合わせを行えばいいか、広義の「コミュニケーション」の本とも言えると思います。

 

 余談ですが、著者の冨永先生は私と年齢も問題意識も近く、今は、私の出身大である立命館大学で教えているそうです。その点でも親近感を持っています。

3位 美容は自尊心の筋トレ 

美容は自尊心の筋トレ (ele-king books)

美容は自尊心の筋トレ (ele-king books)

  • 作者:長田 杏奈
  • 出版社/メーカー: Pヴァイン
  • 発売日: 2019/06/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 編集者や文筆業の女友達たちが絶賛していたので読んでみました。なるほど、たしかにこれは良いものを読めた。

 読み始めた当初は、美容家の齋藤薫さんのコラムと似たような感じっぽいかな……と思っていましたが、ぜんぜん違うものでした(齋藤さんのコラムはそれはそれで大好きです)

 あとがきに、著者は編集さんから「美容本のコーナーではなく、フェミニズムの棚に置いてもらえる一冊にしたい」と言われたというくだりがありましたが、まさにそんな本。

 美容そのもののテクニック集や、精神論の本ではありません。「キラキラした華やかな美容の本は苦手」「地味で陰キャな私には、美容なんて関係ない」と思っている人に、まさに読んでもらいたい1冊。

 自尊心や自己肯定感、モテ非モテ、こじらせ、生きづらさ、ルッキズム、障害やユニークフェイスなど、最近の私や友人たちの関心ごととピッタリでその点もタイムリーでした。

 また、文章内での予防線の貼り方というか、多様な人への配慮が丁寧なところも、文筆家の仕事としてとても憧れました。

 モテるための美容だって大いに結構、だけど「あなたの美容はモテるためでしょ?」と決めつけることには異を唱える。口ひげや脇毛をあえて処理しない美意識にも目を向けつつ、長田さん自身は処理をする派。ご機嫌でポジティブなことは素敵だと賞賛しつつ、怒るべきときに怒り悲しいときに涙を流す人のことも魅力的だと肯定する。

 同じような言葉でも、「どのような文脈なら違和感はなく受け入れられ、どういうシチュエーションだとネガティブになるか」ということもかなり解きほぐされて書かれています。ここまで多方面に配慮しつつ、且つ、文章としてのツヤを失わないものが書けることも素直に尊敬します。

 

 長田さんは、世渡り仕草としての「謙遜」は否定しないし、美のストライクゾーンが狭い人の価値観もリスペクトする。自虐する人のことをそれだけで嫌いになることもない。でも、それだけではない世界の可能性を「美容」のカテゴリから大風呂敷で見せてくれます。

 気休めの感情論ではなく、文化の違いやメンタルに与える影響など、丁寧でロジカルな部分も多く、力強い納得感を持って読むことができます。「仕事で多くの人と関わっている、美容業界のプロが言っているのだから」という部分にも頼もしさがあり、まるで、信頼できる先輩に心を預けて話をしているような気分になります。

 

 以前、この本を勧めていた友人と話したとき、読書嫌いを自称する彼女が「良い本だったので、もう一度読み返している」と話していたことも印象的でした。私もこのブログを書くにあたり本棚からこの本を取り出しましたが、読み返したくなってもう一度最初から読み返しました。

 印象的な箇所が多すぎて、逆に1枚も付箋を貼れなかったのがこの本です。そして、読み返すたびに印象に残るエピソードが変わる本だと思っています。年を重ねたりライフステージを迎えるごとに、この本からもらえるパワーの質も変わってくるんだろうな。きっとこれから先の人生、何度も読み返すことになるんだろうなと思える1冊。発売から早いスピードで重版がかかったというのも納得です。

 女性に限らず、見た目や非モテ、こじらせ、ポリコレなどのワードに関心のある男性も、一読の価値はあると思っています。「魅力をインストール」「美のアーカイブ」などの比喩も多用されており、生々しい女性性も薄く、とっつきやすいかと思います。

 個人的にはこの本、もっとも「2019年らしい」本だと思いました。世の中の多様な美に目を向けていくことになる潮目として、とても象徴的な本だと考えています。

2位 欲望会議 「超」ポリコレ宣言

 2日間で一気に読了しました。1年前の発売当初から話題になっていましたが、評判通りの面白さでもっと早く読むべきだったと後悔した1冊。1ページ読むごとに電子書籍の付箋やマーカーをつけて、久しぶりに、付箋やマーカー数の上限を気にしながら読んだ本。

 小説『デッドライン』が芥川賞候補にもなった哲学者の千葉雅也さん、恋愛本の著作も人気なAV監督の二村ヒトシさん、いわゆるネトフェミとは違い、まともなフェミニストとしても評価の高い美術作家の柴田英里さんの、3人の対談形式の本です。

 内容的には全面に賛同できるというわけではないんですが、ここで語られていた視点を脳内にダウンロードすることで、世の中の炎上案件や傷つきへの解像度が高まった気がします。

 エログロやサブカルフェミニズムジェンダーセクシュアリティ現代アート現代思想どの観点からも面白かった1冊。

 千葉さんの話からは、私が知的にもっとも信頼している友人のひとりである、文学研究者の友人との会話を思い出します。

 二村さんは実業家ということもあり、現実に即した考え方でとてもバランスが取れている方だな、と思いました。

 柴田さんの考え方には支持できる部分と支持できない部分があり、自分にない視点はそれとして興味深く受け取りました。

 例えば表象の問題に関しても、私は、ドラマやアニメや小説、漫画など、観たい人がお金を払って観る「コンテンツ」と、それを見たくもない人に見せることを目的とした「広告」では許容される表現の範囲は異なると思っているのですが、柴田さんはどちらのケースでも「表現の多様性を認めるべき」という立場である点は、そこは私とは大きく違うなと思いました。

「本当のマイノリティの欲望は、ゾーニングを超えなければ延命できないという思いもある」

「私は、ジェンダーは構築されたものであり、自ら構築することも可能なものだと考えているけれど、セクシュアリティに関しては、変更不能な本質的な部分もあると考えます。

 つまり、完全なゾーニングをすると、必然的に異性愛の欲望ばかりが表面に出てきてしまう。」

 などのくだりも、印象的でした。


 この本は、タイトル通り「欲望」について多方向から丁寧に向き合っている本。

 この本を読んでいる最中、自分自身の欲望についても突きつけられる部分がありました。本の前半では私の中学時代、後半では私の小学生時代の、一般的でない「欲望」についてたびたび思い出し、「あの頃の“こじらせ”の大半はこの本で説明可能だ」ということに気づいてスッキリしたと同時に、12歳が悩むにはあまりにも重すぎるし、どう向き合うべきだったかは未だに結論が出ないな……なんてことを思ったりも。

 

 また、私はかつて自動車の広告関連の会社にいたので、

「F1のグリッドガールが、表向きには女性がセクシーすぎるということで廃止されたけれど、背景にはイスラムマネーが強くなっているからというのもある。ポリコレ的な配慮というのが社会的には前面に出てくるけれども、背景には資本の力がある」

イスラムの資本が圧倒的になったら、『ポリコレ的に正しくないから顔や身体を露出した女性を描くな、ゲイやレズビアンは描くな』になる」

 という点も、そういうことだったのか……と目から鱗でした。

(あと、私は「ポリコレに配慮」するならむしろ「ゲイやレズビアンを出せ」という方向になるかと思っていたので、その点はやや意外な気もしました) 

「ポリコレというのは、なるべく交換がスムーズにいくようにするということ」という定義も一理あると思いました。

1位 こんな夜更けにバナナかよ

『欲望会議』とどっちを1位にするか迷いましたが、こちらを1位にすることにします。2018年に大泉洋主演で映画化もされたノンフィクション。

 福祉系の友人が薦めていた本をネットで探していたとき、渡辺一史なぜ人と人は支え合うのか ──「障害」から考える (ちくまプリマー新書)』という本を見つけました。評価が高かったので読んでみたら、案の定とても良い本。本の中でたびたび言及されている『こんな夜更けにバナナかよ』の方も気になったので読んでみたらそちらも名著だった……というのが、この本との出会いのきっかけです。

 

 北海道で暮らすライターの著者が、ひょんなことから重度身体障害者鹿野靖明さんを取材することになり、その2年4ヶ月を描いたノンフィクション。

 筋ジストロフィーを患い、24時間のサポートが必要な鹿野さん。「病院ではなく、自宅で自立生活を送りたい」ということで集めたボランティアたちとの交流や葛藤が描かれています。

 タイトルは、鹿野さんが夜中に「バナナが食べたい」と言い、ボランティアにバナナを買いに行かせたエピソードから抜粋したとのこと。

 障害者のワガママはどこまでが妥当? タバコを吸うのはアリか?

 自慰行為など、性の介助はどうあるべきか?

 とにかくいろんなことを考えさせられた作品。

「タバコは身体に良くないですよ」と反対するボランティアに「うるさいな、俺の勝手だろ」と言う鹿野さん。そこでボランティアと揉めて険悪になるかと思いきや、「あいつはなかなか骨のあるボランティアだ」と鹿野さんが評したエピソードも印象的です。

 鹿野さんのエピソードのほかにも、さまざまな障害者運動について引用されており、大きな駅にエレベーターが設置されていることはかつての障害者運動の結果だということなどを知れたことも大きかったです。

 鹿野さんは結婚していたこともあるそうです。また、鹿野さんと元カノとのやり取りを読んだときは、「これ、今で言うところの『メンヘラ』や『メサコン』かも……」と思うところもあり、その観点からの興味深さもありました。

 

 また、「鹿野のワガママに、どす黒い気持ちになったこともある」ということにも、著者は本の中で触れています。(この本が発売される前年である、2002年に鹿野さんは亡くなっています)

 私自身は「そんなふうにワガママに振舞いつつも、これだけ多くの人がボランティアに集まるのだから、鹿野さんはなんだかんだ憎めない存在で愛されキャラだったんだろう。私もお会いしてみたかったなぁ」なんてことを考えたのも束の間……いや、ちょっと待てよ。

 そういえば私自身も以前、障害のある知人に振り回されていたことがありました。

「自分は障害者なんだから」を盾にワガママを言う友人がおり、立場上なかなか離れることができず、どうすれば離れられるかひたすら悩んでいた時期がありました。

 その人に会うまでは「障害のある人は、人の痛みが分かる心優しい人なんだろう」と勝手に思っていました。やがて、その人の家族とも交流していくうちに「この人は『あなたは障害があるんだから』と、親から甘やかされて育ったのではないだろうか」と推測しました。

 当時、「こいつ以上にワガママな人間には、今後の人生、出会うことはないだろうな……」とはっきり思ったのを覚えています。(そして実際、その人以上にワガママな人物にはその後、出会うことはありませんでした)

 この人は障害と関係ないワガママがほとんどでしたし、私は別にボランティアとして関わっていたわけではありません。なので、鹿野さんとボランティアの関係と比べてしまうのが乱暴であることは承知していますが、他者のワガママに振る舞われることの面倒くささを思い出し、「あぁ、鹿ボラの人たちもあんな気持ちだったのかもしれないな……」と想像することができました。

 あと私は現在、身内に車椅子生活で意思疎通がやや困難な者もいるので、他人事とは思えない部分もありました。また、知人のお子さんが筋ジストロフィーということもあり、その点でも興味深かったです。

 

 「障害者のワガママ」を考える際、特に印象的だった箇所について(一部編集した上で)以下、抜粋します。

 自立生活の場面では、障害者の側は常に「日常生活」を営んでいる。

 例えば、痰の吸引、体位交換、食事介助、ガーゼ交換、歯磨き介助など……言うまでもなく、これらの介助を鹿野が要求することは、何らワガママではない。これをワガママと言われたら鹿野の立場はないし、それをサポートするのが介助者の仕事であるのは当然である。

 しかし、健常者なら、誰でも自分のカラダで実現できること──気分しだいでテレビのチャンネルをパチパチ換えたり、CDを入れ換えたり、ファミコンに熱を上げたり、夜中に突然腹を減らして何かを食べたり、ということも当然のことながら介助者がサポートしなければならない。

 さらに、ときに人間がそれとわかっていながら求める有害なもの、危険なもの、あるいは、障害者にも悪徳を犯したり自殺したりする自由があるともし考えるなら、「自立を支える介助とは何なのか?」という問題はわからなくなる。

 同様に、暴飲暴食は止めるべきなのか、電話で気に入らない人間に悪態をついているのを聞けば何か言うべきなのか、ムシャクシャしてひっくり返したものの後始末は黙ってすべきなのか……。それが障害からくるものなのか、性格によるものなのか、体調によるものなのか、一時的なものなのか、しばし見分けがつきづらいのが日常生活である。また、恋愛やマスターベーション、セックス介助など、より私的な部分にまで踏み込むとき、「障害者も健常者も同じ人間」という大原則は、どこまで無条件に適用できるものなのか──。

 

 あと、高等教育や若者文化、社会運動の歴史について興味がある私は、

1980年半ばには、「ボランティアはまだまだマイナーな存在」であり、「どこか左翼くさい雰囲気」が漂っていた。

「当時の大学は、テニスサークルやナンパサークルの全盛期。ただ、前の時代の余韻で『社会変革』というキーワードもかろうじて生き残っていた。ボランティアに集まってくる学生は、良くいえば社会問題に関心が高くて一人ひとり魅力があるんだけど、悪くいえば、ナンパサークルの雰囲気から取り残された“イケテない”ダサイ感じの人たちが多かった」

 という部分も印象に残りました。

 

 映画版も観ましたし、映画は映画としていい作品ではありましたが、あの映画はこのノンフィクション書籍とは別物だな、という印象です。

 映画では、ボランティアスタッフの医大生とその彼女、そして鹿野さんの三角関係がコミカルに描かれています。ですが、原作のこのノンフィクションは、さまざまなボランティアたちの群像劇であり、著者の渡辺さんの物書きとしての成長物語としても面白かったです。

 この本の文庫版・Kindle版には、鹿ボラの主要メンバーの後日談も掲載されていました。ボランティア当時は学生で、その後教員になり「あのボランティアは自分にとって大きな経験になった」という人もいれば、メディアの記者になり「あの場所だったからできたことだと思う。今はもう目の前の現場のことに精一杯で、ボランティアのことを思い出すこともあまりない」という人もいて、ボランティアの経験の受け取り方も様々なんだな、ということを実感しました。

 ボランティア内で結婚したカップルも複数いて、鹿野さんのお葬式の時には赤ん坊のぐずる声も聞こえており、生と死の繋がりを感じた……というエピソードも印象的です。

 この本の出来事は、1990年代後半〜2000年代初頭のことがメイン。当時はネットもケータイも一般的ではなく、ボランティアスタッフ同士は「介助ノート」での交流も多かったようです。鹿野さんのワガママっぷりも、今なら絶対炎上しただろうな。

 鹿野さんの映像って残っていないんだろうか……と探してみましたが、カメラ付きケータイすらあったか怪しい時代ということもあり、ネットでは見つけることはできませんでした。(映画のエンディングでは一瞬、本物の鹿野さんの映像も映し出されていました)

 

 この本は7月下旬、青春18きっぷを使った旅の帰りに読み終えました。終盤は、電車の中でボロボロ泣きながら読みました。

 ちょうど、ALSの参議院議員が誕生したこともニュースになっていた時期で、そういった意味でもタイムリーでした。(筋ジストロフィーとALSは異なる病気ではありますが、近似するところがあるようですね)

 タイムリーといえば、この本を知るきっかけとなった『なぜ人と人は支え合うのか』にも言えます。今年の1月、相模原障害者殺傷事件の植松被告の公判がありましたが、この『なぜ人と人は〜』では、この事件や植松被告の生い立ちについても多くのページ数が割かれています。中高生向けの新書(ちくまプリマー新書)なので読みやすさもあります。

 

『こんな夜更けにバナナかよ』はページ数が多くて読むのに抵抗があるし、そもそも障害者の福祉にそこまで興味ない……という人には、まず『なぜ人と人は支え合うのか』を読むことをおすすめします。私もその順番で読みましたし。

 こちらの本では、

「障害者が社会に贈与を『与え返す』機会について」

「システム化された福祉は誰も傷つかない代わりに、ドラマもない。ドラマのないところに人間の尊厳も生まれない」

「障害のある自分のことを、ちゃんと、かわいそうな存在として見てほしい。仕事だからやるんじゃなく、心が動かないとダメ」

「介護というのは、お互いに気持ちのいいところを探り合うもので、その意味ではセックスと一緒」などのくだりが印象的でした。

 近年は、感情労働への批判が高まり、きちんと対価を払って依頼することこそ正義とされがちなところがありますよね。それに反するかのような意見はとても興味深く、読んだことでこれまでと考え方が変わった部分もあります。

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どの本も良かった……!

 

 それにしても今期は、近いテーマの本を同時期に読むことが多く、情報の吸収率というか考察が特に捗りました。おすすめの組み合わせをいくつか紹介すると、

『こんな夜更けにバナナかよ』×『みんなの「わがまま」入門』

 障害者が「普通に生きたい」と思うことは「わがまま」なの?

 そもそも「わがまま」って悪いこと? 自分だったらどうする? どこまでならOK?

 多くのボランティアを巻き込み、命がけのワガママを主張して福祉にも影響を与えた鹿野さんの生き様に目を向けたり、近年の「社会運動」をめぐる世の中の動きについて思いを馳せたり、いま自分自身が抱えているモヤモヤを考察してみると、より深い内省や読書体験ができることでしょう。

『欲望会議』×『炎上しない企業情報発信』

「多様な欲望を肯定すること」と「多様な人に向けた情報発信」は、どうすれば両立可能?

 情報の受け手側は、不快なものとどう折り合いをつけていくべき?

 情報の発信側は、どのように配慮すべき? 

 それぞれ、どのような影響が考えられる?

 ある意味では主張が正反対とも言える2冊を読み比べると、いい感じに脳内のバランスが乱れてきます。

『美容は自尊心の筋トレ』×『ダイエット幻想』

 いくつになっても「若さ」「かわいさ」を追求することについてどう思う?

 そもそも「若く見られたい」「いくつになっても可愛くありたい」というのは、本当に当人が望んでいること? 社会的な抑圧によるものではないのか?

 類似のテーマを扱いつつ、エイジズムや「イタさ」についてはこの2冊では微妙に立場が異なる部分も。特に『美容は自尊心〜』の方では、1冊の本の中でも立場の揺らぎが見受けられて、それもまた面白いなと思いました。

『こんな夜更けにバナナかよ』×『この顔で生きるということ』

  それぞれ障害の質は異なり、恋愛や仕事の上での問題も異なってきています。どこまでは個人で引き受けるべきことであって、社会の側はどのような考慮をすれば良いのか? この2冊を読むことで少しずつ自分なりの答えが見えてくるかもしれません。

『ケーキの切れない非行少年たち』×『カスハラ』

 非行少年やモンスタークレーマー。彼らはどのような理由からそのような行為に至ってしまうのか。両者について思いをめぐらせることで、人間の認知の歪みについて考えさせられるのではないでしょうか。 

 

 

 ……あぁ、とっても長い記事になってしまった。

 今回取り上げた本は、大きく価値観が揺さぶられたものがとても多く、私と問題意識が近い方(必ずしも賛否が一致する必要はなく、社会課題として興味を持つものが近い方)には、上位の本は特に自信を持っておすすめできるものばかりです。

 ぜひ、読んでみてください!

私にとっての「今年の漢字」2019ver.

 私にとっての「今年の漢字」、今年は間違いなく「転」だな。

 

 そんなふうに考えていたのは半年前のこと。今年は7月に「転」職をし、5月に身内が「転」倒したことによって生活に変化が生じたことから、今年の漢字は「転」にしたいと考えていました。

 

 今年は、2〜3ヶ月に一度のペースで波が訪れ、心身ともになかなかに慌ただしい1年ではありました。
 誰かとケンカしたり、仲直りしたり。疎遠になったり、再び交流したり。ネットで執拗に粘着されたかと思えば、ファンが増えていたり。怒られたり、褒められたり。いろんなひとと、いろんなところで再会したり(24年ぶりに幼稚園時代の友達と再会したり、20年ぶりに小学校時代の恩師と会えたのは大きかった……!)。

 有給消化期間もあり、遊ぶ時期と仕事に集中する時期がはっきりしていて、割とメリハリのある1年でもありました。

 

 ホストクラブから裁判傍聴まで、プライベートでもいろんなところに遊びに行きました。
 今年初めて挑戦したこと・やってみたものはなにがあったかな。

 裁判傍聴、競馬、レモン狩り、NPO法人への寄附、フリマ出店、ホストクラブ、転職、美容鍼……。こんな感じかな?

 また、今年はたくさんの銭湯・温泉をめぐることもできました。

 転職活動や仕事の合間に、いろんなモーニングやカフェ、飲食店に立ち寄るのも面白かったです。

 業務外の部分でも、転職で大きく生活が変わりました。

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 そんなわけで、今年の漢字は「転」かな……と思ったけれど、いや、なんだかそれは今年の本質ではないな、と思ったりも。

 転職の際、どういう基準で企業を選ぶか。

 自分の人生を豊かにするために、どういう生き方をするか。

 だれと、どのような人と働くか、生きていくか。

 どのタイミングで決断するか。どのタイミングで伝えるか。

 逆に、何を「選ばない」という決断をするか。

 そういうことをずっと考えてきた1年だった気がします。

 転職してからも、営業職になったので、

「どうすればこの商品を選んでもらえるか」「どうすれば私自身を信頼してもらえるか」を、ずっと考えていました。

 あと、直接あまり関係ないけど、今年は従姉も市議会議員選挙に立候補して「誰かに選ばれること」を経て転職をしていて。

 今年は「選ぶこと」「選ばれること」を強く意識した1年だったな、と思いました。

 なので、今年の漢字は、

「選」

に、したいと思います。

 

 ちなみに、これまでの「今年の漢字」は、こんな感じ。

2006年 諦(受験で諦めるものが多かった)
2007年 再(再会、再開、再履修。笑)
2008年 文(文芸部に加入)
2009年 人(新しいバイトやビジコン参加で出会いが増えた)
2010年 会(Twitterでさらに出会いがたくさん)
2011年 繋(東日本大震災、友達同士をたくさん引き合わせた)
2012年 動(引っ越しや就活や旅行での移動)
2013年 交(みんなより少し遅れて社会人に。いろんなひととの交流が増えた)
2014年 焦(結婚や独立する友達への焦り)
2015年 (結婚話が破談、引っ越し、家族とのあれこれ)
2016年 (旅行、身近な人の独立、訃報など)
2017年 (ものづくり好きな人との交流、同人誌やハンドメイド)
2018年 (脱毛、献血、親知らず抜歯など)

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 では、良いお年をお迎えください。

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このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法

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紙コップと賑やかなリビング

 

 2013年春────

 

「お邪魔しま〜す」

 なにか新しいことが始まりそうな、春特有の高揚感。さわやかな夕風とともに、友人たちが私の部屋に上がって来た。

 神楽坂の小さな1LDKに6人が入ると、部屋はもうぎゅうぎゅうだ。でも、その距離感もどこか心地良かった。友人たちはスーパーで買ったお惣菜やお酒をレジ袋から取り出し、テーブルや床に並べ始める。私も紙コップと紙皿、割り箸をみんなに配る。

「ようこそ!」

 

※この記事は、「シェアハウスのアレコレ Advent Calendar 2019」の17日目の記事として書かれています。

 

 就職を機に、神楽坂のマンスリーマンションで暮らし始めた私は24歳になったばかり。
 東京で暮らすのはいつぶりだっけ。代々木から引っ越したのが小4の終わり、1999年の3月だから、えーっと、14年ぶりの東京暮らしか。時が経つのは早いなぁ……。

 とはいえ、今、神楽坂の部屋に集まっているのは幼少期からの友達ではない。全員、つい最近、大人になってから知り合った友人たちだ。

 

*** 

 きっかけはTwitterだ。東京に引っ越したばかりのある日、相互フォローの友人からひょんなお誘いがあった。「社会問題について話すインターネット番組『ジレンマ×ジレンマ』を運営しているんですけど、よかったら観覧に来ませんか」というものだった。ところが直前になり、登壇予定だった1人が来れなくなってしまい、なんと私が登壇することになった。

 この「ジレンマ×ジレンマ」の放送が行われたのは、インターネット系のシェアハウスギークハウス水道橋」。数ヶ月に一度の不定期のペースで、このシェアハウスの1階スペースを借りてUstream配信を行っている。

「ジレンマ×ジレンマ」は、NHKで放送されている番組「ニッポンのジレンマ」のパロディ番組だ。社会問題や福祉、政治、報道などに興味がある20〜30代の有志で運営している。そういう話は私も好きだったので、メンバーのみんなともすぐに仲良くなった。

「ジレンマ×ジレンマ」の懇親会の様子。2013年、ギークハウス水道橋にて。

 

***

 友人たちが神楽坂に来てくれたこの日は、テレビ番組「ニッポンのジレンマ」の鑑賞会を私の家で行った。お酒を飲みながらあれこれツッコミを入れつつ、ワイワイおしゃべり。何の話をしたっけ。共通の友人知人の話や、学生運動や就活、ジェンダー、働き方の話で盛り上がったっけ。

 あぁ、こういう刺激的な話ができる友達っていいな。これからもみんなと仲良くできたらいいな。もっと大きなことができたらいいな────。 

 

 あっという間に、みんなが帰る時間となった。

「きょうはありがとう! また遊ぼうね~!」

 みんなを見送ったあと、私は改めて片付けを始める。使用済みの紙コップや紙皿、割り箸、食品の包装をゴミ箱に入れる。余った紙コップや紙皿、割り箸は、また宅飲みするときに使おう────。

 

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***

 2013年5月下旬、私は梱包した荷物を郵便局に運んでいた。3ヶ月の神楽坂暮らしも、きょうでおしまいだ。マンスリーマンションでの短期間滞在だったので、荷物も少ない。

 神楽坂はとても住みやすいまちだった。おしゃれなお店もあり、スーパーやドラッグストア、100均も近い。地域猫も暮らしている。見知らぬおばさんと軽く会話を交わすような、下町らしさも残っていた。それでいて交通の便はとても良いし、治安も申し分ない。できることならまた神楽坂で暮らしたい、また都内で暮らすことになったら、今度は神楽坂の文京区方面に住んでみたいなぁ────。

 

 そう、私はこれから名古屋に引っ越すことになる。名古屋で6月から3ヶ月過ごしたあと、東京か名古屋のどちらかで配属先が決定する。

 

名古屋市昭和区

 

 2013年6月から名古屋暮らしが始まった。3ヶ月が経ち、配属先は名古屋に決定した。

 期待に胸を弾ませた名古屋生活だったけれど、なかなか思うようにはいかなかった。

 まず、なかなか同年代の友達ができなかった。できたとしても、1人ずつバラバラのコミュニティで知り合った人が多く、神楽坂にいたときや、京都で過ごした学生時代のような「みんなでワイワイ」するような交遊関係は築けなかった。

 

 名古屋のコミュニティとして特徴的だったのは、世代を跨いだコミュニケーションが多かったこと。学生時代や神楽坂では、同年代の若者で集まるコミュニティが多かったけど、名古屋で出入りしていた場所はどこもいろんな世代の人がいた。女子高生からおじいちゃんまでいるようなアートコミュニティや、二十歳前後の学生から年配の大学教授までいる読書会、親子で参加しているようなボランティア団体は、それはそれで町内会っぽさがあって新鮮だった(20~30代の親とちっちゃい子、というパターンもあれば、50~60代の親とアラサーの子、のパターンもあった)。

 ただ、町内会っぽいコミュニティにはどこか居心地の悪さを感じることもあった。幼少期から引っ越しが多く、ひとつの地域で短期間しか暮らさなかった私は、昔からその地域にずっと住んでいる人たちが多い集団には疎外感を抱くことも多かった。

 

 

 名古屋に馴染めなかった私は、数ヶ月に一度は関西に遊びにいっていた。京都で学生時代を過ごした私は関西にも知り合いが多く、京都や大阪の読書会や講演会、滋賀のアートイベントなどに足を運んだ。名古屋からなら、片道の交通費も2,000円程度に抑えることができる。

京都大学

 

 宿泊場所としては、シェアハウスのお世話になることが多かった。

 京都の「蟻の巣」「ファクトリー京都」には何度も泊めてもらったし、「学森舎」にも遊びにいった。大阪だと「中津の家」にお世話になることが何度かあった。

 東京に遊びに行くときも、野方にあるシェアハウス「妖怪ハウス」に泊めてもらおうとしたこともあったっけ(私のことをTwitterでブロックしている人が住んでいると知ったので、結局泊まらなかったけど)。

 

シェアハウス「蟻の巣」

 

***

 名古屋は東京よりも家賃は安い。都心ならボロアパートを借りるのが関の山であろう家賃で、駅徒歩1分、10畳、築浅でオートロックで宅配ボックス付き、複数のスーパーやドラッグストアが近いという、とても恵まれた物件に住むことができた。でも肝心の、家に呼べるような友達がなかなかできなかった。特に女友達を作ることが難しく、2年4ヶ月住んだ中で、二人で一緒にごはんに行けるような女友達は1人しかできなかった。

 深夜まで営業しているスーパーが近所にいくつもあったのは便利だったけど、宅飲みの買い出しであろう若者グループを見るたびに、なんで私はこんなところにいるんだろう……と胸がキュッとした。

 神楽坂のマンションから持ってきた紙コップも紙皿も、ぜんぜん減ることはなかった。だって宅飲みする友達グループがいないから。

 やがて名古屋で恋人ができた。ここで覚悟を決めて、名古屋に骨を埋めるのもアリかもな……と思ったこともあったけれど、結局、交際は長く続かなかった。

 これから、どうすればいいんだろう────。

 

名古屋市東区

 

 そんなある日。忘れもしない、2015年7月のこと。

 母が重い病気になった、という知らせを受けた。

 東京の病院のお世話になることになるらしい。これから介護も必要になる。勤務先に事情を話し、私は東京への異動が決まった。

 あんなに戻りたかった東京暮らし。まさか、こんなカタチで実現することになってしまうなんて。なんて皮肉なんだ────。

 

 絶望と希望を詰め込みながら、2015年9月、私は名古屋から東京へと転居した。

 

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***

 2年4ヶ月ぶりに再開した東京暮らし。名古屋での生活が嘘みたいに、たくさんの友達ができた。たくさんのお誘いもあった。たくさんのシェアハウスにもお邪魔した。

 そんな私には、やってみたかったことがあった。

 自分の誕生日会だ。

 成人してからは、誕生日はひとりで過ごすか、恋人や友達と遊ぶことが多く「大勢の友人を招いてのパーティー」というものはやったことがなかった。

 

 そして、2016年3月2日。かつてギークハウス水道橋で知り合っていた、友人の平田さん(id:tomo31415926563)の協力により、シェアハウス「妖怪ハウス」を誕生日会の会場として使わせてもらえることになった。

 この家はいわく付きな物件でもあった。私のことをTwitterでブロックしていた人が住んでいると聞いていたが、その人は退去したのち、やがて自殺してしまったらしい。また、私の誕生日はオウム真理教麻原彰晃と同じなのだけれど、この「妖怪ハウス」は、かつてオウム真理教病院があった場所にできたシェアハウスだという。

 そこに、さまざまな年齢、職業の人物が集められて誕生日会が開催される……というのはまるでミステリーの舞台のようなシチュエーションではあったけれど、特に事件が起こるようなことはなく、誕生日会は無事に開催された。

 平日の夜だというのに、17人も集まってくれた。

 私は誕生日会のために、紙コップや紙皿、割り箸を持ち込んでいた。2013年から3年間、保管していたものもある。

 

 仕事が終わった友人たちが順番に到着する。みんなが次々、それぞれの紙コップに飲み物を注ぐ。割り箸を使い、オードブルを紙皿に移す。あんなに残っていた紙皿も紙コップも、どんどん消費されていった。

 あぁ、そうだ、これだよこれ。私が恋しかったのは、この感覚だ。

 友達が集まってくれて、みんなでお酒や食べ物をつまみながら交流すること。

 友人同士で買い出しに行ってくれること。交友関係が繋がっていくこと。

 そういったワクワク感の象徴が、私にとっては紙コップと紙皿だった。

 友達たちとの宅飲みも、バーベキューもお花見も、思えば随分ご無沙汰だったな。

 

 あぁ、居場所があるっていいな。

 集まれる友達がいるっていいな。

 大勢集まれる広いリビングがあるっていいな────。

 そんな「戻ってきた」感覚を噛み締めながら、27歳初日の夜は更けていった。

 

(P[か]4-1)誕生日のできごと (ポプラ文庫ピュアフル)

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徹底討論!ニッポンのジレンマ

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  • 出版社/メーカー: 祥伝社
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性的な広告は悪いこと? 献血ポスター論点あれこれ

 11月は思いのほか充実していて、まるでなにかの物語みたいにいろんなコトが起こります。コメディみたいな展開が起こったり、大学時代に戻ったみたいにワイワイしたり。

 まだまだ、wuzukiちゃんは遊びたいです。

 

 ……さて今回の記事では、少し今更感がありますが、献血ポスター炎上騒動」について触れてみたいと思います。

 これはどのようなものか知らない方向けに説明すると、

 漫画「宇崎ちゃんは遊びたい!」のイラストを使った日本赤十字社のコラボポスターが「性的だ」と批判を受けたことを皮切りに、ネットで賛否両論が巻き起こっている......という経緯の騒動です。

news.livedoor.com

news.nifty.com

 このポスターを擁護する意見としては、

着衣のイラストで、特に性的だとは思えないので別にいいのでは」

「このポスターが貼られていた場所はそもそも限られていた。もともと多くの人が見るものではなかったはず」

「この絵はコミックスの表紙。問題のある絵柄だというのなら、書店からも撤去すべきということになる」

「巨乳キャラを使うことが良くないというのは、巨乳女性への差別になるのでは」

「このコラボキャンペーンによって献血する人が増えるのなら良いのでは。人命のほうが個人的な快不快より優先されるべき」

「体質の問題から、女性よりも男性のほうが献血可能な人は多いし、オタクには童貞が多く感染症リスクも少ない。男性オタクに訴求するエロいポスターを作っても別に良いのでは」

「撤去や規制を求めるのならば、明確な基準が設定されるべき。感情論で規制されるのはおかしい。環境型セクハラだというのなら訴訟を起こすべきでは」

「このような広告があることで差別が助長する、というエビデンスはないよね」

「もっと性的な広告なんていくらでもあると思うのに、萌え絵ばかり批判されるのはおかしい」

「これが宇崎ちゃんじゃなくて、ONE PIECEのナミや、ルパンの峰不二子だったらきっとここまで批判されなかったよね」

というものが多く、

 批判的な意見としては、

「着衣のイラストであっても、構図や作品の文脈次第で性的要素が強いものにはなりうる。下から煽るアングルは性的になりうる」

「漫画そのものの広告ならともかく、日赤のキャンペーン広告として適切とは思えない」

全年齢対象の作品とのコラボならどのようなものでも問題ない、というわけではないだろう」

「問題なのは、いわゆる”乳袋”表現。性的表現の文脈で取り入れられる手法だから、エロじゃないというのはお門違いでは」

「大きな胸を強調した服装をすることと、創作物で性的なサインを込めて巨乳キャラを描くことは違う。キャラクターは読者の性的な視線を意識したものだけど、生身の女性の身体は男性が楽しむためのアイテムではない」

「性的文脈で胸を強調する表現こそ、現実の巨乳女性の肩身を狭くする」

「『エロいポスター作ればオタクも献血するだろ』という姿勢こそオタク蔑視では?」

「オタクには童貞が多いので感染症リスクが少ないので献血に適している、というのは、多方面に対する差別的な考え方では」

「萌え絵が悪いのではなく、使いどころが問題だと思う」

「30年前は水着の女性のポスターが職場に貼られていたけど、環境型セクハラと批判されて、やがてなくなった。萌え絵だから批判されているわけではない」

「この広告に問題はないので議論は不要、という態度の人に違和感がある」

というものが見受けられました。

 

※「イラストよりも、宇崎ちゃんのセリフのほうが問題あるのでは」という意見も多かったけれど、こちらに対してはあまり意見は分かれませんでした。

 

 私自身は、この件に関しては批判的な立場に近いです。

 イラストに関しては、黒い服ということもあり「乳袋」表現は目立ちにくかったので、その点はあまり特に気になりませんでした。どちらかというと、煽るようなセリフのほうが気になりました。(宇崎ちゃんのキャラとしてはしっくり来るセリフなので、漫画の中にあったら気にならない表現だったと思います)

 ただ、私個人はイラストはあまり気にならなかったものの、批判的な意見がこれだけ多く集まり、本来の目的とは関係ないところで議論も白熱したことから、広告としては成功とは言えないのでは……? という点から、このポスターには批判的です。

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そもそも広告は不快なもの

 誰一人指摘していなかったけど。そもそも「広告」って、基本的に「邪魔」で「不快」で「迷惑」なものなんですよね。ノイズとして映るのは当然なんですよ。

 一方で、私たちのまわりにはあらゆる「広告」であふれています。ポスターや看板、テレビや動画のCMのほか、ダイレクトメール、営業電話、チラシ配り、フリーペーパー、展示会、試飲や試食、謝礼つきアンケート、ライブやパーティーなどのイベント告知……。

 少し毛色は違うけれど「選挙活動」とか「婚活」「ナンパ」なども、広義の「広告」と言える場合もあるかもしれませんね。

 今回の日赤のポスターは特に不快ではなかったという人の中にも、今まで、ほかの広告について「迷惑だ、不愉快だ」と思ったことがある方は多いと思います。

 そこで「営業電話は迷惑だけど、条例や法律に反するわけではないのなら、不快だと言うのはおかしなことだ。個人のお気持ちで企業の営業活動を阻害してはならない」と考える人はあまりいないのではないでしょうか。 

 ちなみに現行の法律では、9時〜21時以外の時間帯での電話営業は法律違反となっているため、22時に電話がかかってきた場合などは、法的な処分を求めることも可能かもしれませんね。

 

感情論で良いのでは?

「不快だ、という感情論で表現を規制すべきではない」「問題があるというならエビデンスを示せ」という意見も多く見受けられました。

 私は、感情論の多寡で撤去・変更等の判断をすることは基本的には妥当だと思います。

 そもそもこのポスターは「広告」なので、ネガティブな感情を抱く人が多い広告を撤去・変更したとしても、それは運営側の判断として妥当なケースも多いのではと思います。(今回の件は、特に撤去や変更がなされることはなかったようですが)

 

「私が不快だから撤去してほしい」というならまだしも「社会的に不適切だから撤去してほしい」と主張するのならばエビデンスが必要なのでは、という意見も見受けられました。理屈としてはわかります。

 女性表象を用いることについての批判や研究は、メディア論、表象文化論フェミニズム等の文脈での蓄積はあるとは思いますし、広告業界の中でも存在するでしょう。

 署名運動を行う場合や学術的な発表の場合はともかくとして、市井の人の問題提起の際に、エビデンスを求め「因果関係を証明できないものに対しては、疑問や批判を示すな」と封じることもまた一方的なように思います。多様な意見を取りこぼしかねないのではないでしょうか。

 

肌の露出がなければいいの?

「肌の露出がないから、エロい・性的とは言えないのでは」という意見もありましたが、肌の露出が多い人物表現=性的意図の表現、とは必ずしもならないでしょう。

 たとえば、赤ちゃん用おむつのCM、日焼け止めのCMで水着の人物が出てくること、相撲のTV放送などは一般的であり、人物の肌の露出や「エロさ」の観点から批判が出ることはこれまでありませんでした。

 社会通念としても、「肌の露出が多いものはそれだけで性的表象となり不適切だ」とは、認識されていないと考えられます。

 

オタク差別に該当する?

「同じ巨乳キャラでも、ナミや峰不二子だったら叩かれないんだろう。オタク差別だ」という意見もありました。

 藁人形論法になってしまいますが、仮に有名キャラを起用していた場合は好意的に受け止められていたとしても、それは別におかしなことではないかなと思います。

 すでに一般的に知名度の高い、国民的有名作品のキャラクターが起用された場合と、そうでない作品のキャラの場合では、受ける印象が異なることは当然といえるのではないでしょうか。

(ただ、たとえば「ONE PIECEとのコラボ」企画なのに、ナミだけが広告に起用されていたら、そこになんらかの意図を見出して批判が起こる可能性はあるのではないかと考えられます)

 ただ今回、議論の発端となった批判的な意見をツイートしたのはアメリカ人男性なので、国民的人気作品のキャラであっても、そこに馴染みのない外国人だと反応は違うかもしれませんね。

 

「萌え絵を叩きたいだけだろう」という意見もありましたが、それもまた的外れだと思いました。

(「萌え絵はそもそも性的な感情を喚起するために描かれたものなのですべて不適切」という意見もあるかもしれませんが、そのような批判は主流ではありませんし、同様の批判はグラビアアイドルの仕事などにも言えるため、アニオタへの差別と括ってしまうのは雑かなと思います)

 

 いわゆる「萌え絵」を使った広告はこれまでも多数あり、たとえば「ガールズ&パンツァー」のキャラが水着を着てはしゃいでいるポスターもありましたが、これはおおむね好意的に受け入れられていたのではないでしょうか。(股間の陰について気にしていた人もいましたが、ごく少数の意見だったと認識しています)

anime.eiga.com

 近年になって「萌え絵」の広告が批判されがちだとするのなら、アニメ・漫画文化が一般に広まってきたことと表裏一体でもあるのかな、と思います。 

 

 30年前は女性をコンパニオン的に消費する文化があり、一方で、幼女誘拐殺人事件の報道の偏見等で、オタクが差別されていた背景がありました。

 ところが10年ほど前から、オタク文化もポジティブにメディアに取り上げられるようになります。

 一方で、ハラスメントや性的消費に関しては、批判の声を上げやすい時代へと変化していきました。

 ざっくり言うと、オタク文化の一般化のタイミングで、ポリコレへの意識が高まってしまったことが、ある種、不幸な巡り合わせだったのではないかと……。

 なので、30年前のオタク差別と萌え絵への批判というのは、似て非なるものだと考えています。

 

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血液が集まればいい?

「性差別的だとしても、このポスターによって献血する人が増えたのなら施策としては成功なのでは」という意見も一定数見受けられました。

 程度問題な部分もあるとはいえ、「誰かを差別したとしても、便益が上回れば良いのでは」という意見は手放しに賛同できないです。

「外国人を差別したとしても、それで治安が保たれるのなら良いのでは」「ブラック企業が多くても、そこで国の税収が増えるのなら良いのでは」などの考え方にも繋がりかねないため、危険な考え方だと思います。

 

広告はコミュニケーション

「どこまではOKでどこまでがアウトなのか、線引きを決めるべきだ」という意見もありました。

 これは、少し的外れな意見だなと。

 広告にしてもセクハラ問題にしても、受け手との「コミュニケーション」なんですよね。

 何を誰に伝えたいのか。どのようなメディアで発信するのか。今、何が起こっていて何が流行り、どのような社会情勢なのか……。

 そういったさまざまな事情を踏まえて成立するのが、エンゲージメント率の高い施策なのではないでしょうか。

 事前に細かくルールを制定してしまうと、かえって時勢の変化を取りこぼしやすくなり、かといって頻繁に変更してはルールの意味もなくなるため、ルールの制定は不要だと私は考えます。

 

「◯◯は叩かれないのに、今回の××は叩かれるのはおかしい。◯◯も批判されるべきだ」という意見も見受けられましたが、これも、そもそも「コミュニケーション」をあまり理解していない意見だと思えます。

 類似の表象を扱いつつも、炎上せず好意的に受け入れられている事例があった場合、「◯◯も炎上させるべきだ」と足を引っ張るのではなく、その事例を参考にして、なぜ炎上しなかったのか・どのような点が好意的に受け入れられたのかを考えてみたほうが良いのではないでしょうか。 

 

 また、これは、読んだ本からの受け売りでもあるのですが。

 近年炎上している広告表現って、軒並み、ネット上で公開されているプロモーションであることが多いんですよね。

 地上波のテレビCMは予算も人手も豊富なため、放送局と広告主の双方による細かい審査があり、炎上しそうな表現はあらかじめ弾かれています。一方で、インターネットCMは予算が低いぶん自由度も高く、テレビCMほど厳重な審査は行われていない、という違いがあります。

 表現規制には反対するという人の中でも、「テレビCMに厳密な審査があることは、表現規制だ」と批判している人は見たことがありません。

 世に出る前に審査によって制限されていても「規制なんてとんでもない!」とはならないのに、世に出たあとに批判が起こると「表現規制、反対!」という声が上がるのは、なかなか皮肉な現象にも思えます。

 

 私は別に、あらゆる広告において細かい審査がなされるべきだ、というつもりはありません。

 ただ、ターゲット以外が目にする可能性が高いことを考慮したり、発表することで起こりうる反応を想定し、どのように対応するかを考えておくだけでも、また違ったコミュニケーションが生まれるのではないかな、と思いました。

 

容姿批判は悪いこと? 社会的合意の今後について

 はてなブックマークにて、こんなTogetterまとめが話題になっていた。

togetter.com

  

「容姿は好みの問題もあるし、本人の努力ではどうしようもない部分も大きいんだから、そこを悪く言うのは良くない」

「ブスだった、おばさんだった……程度ならともかく、存在そのものが邪悪なキャラクターに例えるのは悪質

「サービスについて批判をする権利はあるけれど、言葉を選ばないとただの陰口。金を出したら何を言ってもいいというわけではない」

「失礼な内容ということもあるけど、そもそもこんな話題で盛り上がることが下品だし時代遅れ

「こういう話題で盛り上がってもいいけど、インターネットのような公開の場ですることではない

たった1万円しか払っていないのなら、それ相応のサービスになるのは仕方ない」

「風俗嬢が客のことをネットで愚痴ってたりもするけど、それはあくまでも客の言動に対して。不細工というだけでネタにすることはない」

「プロとして問題なく接客しても、容姿が悪いというだけでこんなふうに書かれるなんてかわいそう」

と、このまとめ内容に批判的な意見もあれば、

 

「風俗嬢は、容姿もサービス・商品としての範疇なのだから、そこに不満があるお客から文句が出るのは当然では」

「容姿が能力として評価される職業は当然ある。プラス評価しかすべきでないというのはおかしい

「飲食店の食事がマズかったとか、タクシー運転手が道を知らなかった……という愚痴と同じことでは」

「風俗嬢だって、客のことを #クソ客のいる生活 タグであれこれ言ってるじゃないか」

店や嬢の名前を出しているわけでもないし、キャスト本人に直接言ったわけでもないのなら、別に構わないのでは」

「これだけの情報では名誉毀損になるとは思えないし、表現の自由の範囲かと」

「不愉快だ、下品だというのなら、わざわざそんなまとめを見なければいい

など、肯定的な意見も多かった。

 

 私自身は、この件に関しては肯定的な立場を取りたい。

容姿も含めてサービスなのでは

 性風俗サービスはその性質上、キャストの容姿もサービスとして重要な要素となってくる、ということに一定の社会的合意はあるだろう。そこに対して、満足できなかったという利用客から否定的な意見が出てくることは、当然あり得るのではないだろうか。

 このまとめだけでは、当該キャストの容姿がどのように良くなかったのか(努力で改善可能な範囲かどうか等)は判断できない。

 しかし、そのキャストが身だしなみの手入れを怠っていた場合でも、好みのタイプではなかった場合でも、店が売り出しているコンセプトとかけ離れていた場合でも、お客がサービスの愚痴を言うこと自体は特におかしなことではないと思う。

 

「初対面の者同士で肌や粘膜を密着させる」「限られた時間の中で濃厚なコミュニケーションを取る」というシステムになっている以上、相性が悪かった、不満だった……と感じることは、おそらくそのほかの接客業以上に多いのではないだろうか。

 自由恋愛や、恋愛結婚をしたカップルですら喧嘩をしたり、別れることは多々あるのだから、初対面同士なら当然、不満が出ることも多いだろう。

 

法に触れるのは良くないけれど

 もちろん、店やキャストの名前を名指ししていたり、特定が容易な形で書いていたら話は変わってくる。キャスト本人が見たら、努力での改善が難しいことを面白おかしく嘲笑われたら傷つくこともあるだろう。侮辱罪、名誉毀損罪、営業妨害となる場合もあるかもしれない。

 ただ、このまとめに載っているやりとりでは、どの店のどのキャストのことなのかは特定ができない。特徴が詳細に書かれているわけでもなく、人外のキャラクターに例えられているということもあり、この投稿が営業妨害や侮辱罪等になるとも考え難い。

 

陰口は良くないことか?

「容姿を貶すことは悪いこと」「思っていたとしても、公言するのは良くない」「こんな話題で盛り上がることは下品だ」という意見が散見されたのも気になった。

 賛否あるのかもしれないが、個人的には、陰口の類が特に悪いことだとは思わない。

 まぁ、特段褒められた振る舞いではないにしても、さまざまな事情があってその場では言いづらいネガティブなことを、他者に打ち明けることくらいは誰しもあるだろう。

 陰口を言うことで「本人に直接言えばいいのに」「この人、ネガティブな話ばかりしてるな」と相手から思われることもあるかもしれないが、そのように評価されることも当人が承知の上であるなら、その振る舞いを他者が制限する必要はないだろう。

 過激な言葉遣いで他者を貶すことに慣れてしまうと、どんどんその言動がエスカレートしていき、やがては周囲を傷つけていくことになる……というリスクはあるかもしれない。陰口という形で誤報を広めてしまうことや、名誉毀損に繋がる出来事も起こるかもしれない。だが、それにしても、先回りして制限すべき言動であるとも思わない。

 それらによって他者の権利が侵害されているとも考えにくいため、これは表現の自由の範疇ではないかと思う。

 

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たしかに下品かもしれないが

「下品である」というのは、まぁ、社会通念上そう思われるのは無理ないかなぁ……とは思う。しかし、別にネット上では必ずしも上品な振る舞いをしなければいけないというわけでもないだろう。

 下品である、と批判をするにしても、そのようにネット上で批判をすることもまた「下品だ」と思う人もいるかもしれない。

 法に触れる言動の場合は話が変わってくるが、ヘイトスピーチに該当するわけでも、特定の人物を攻撃する内容というわけでもないのなら、個人の好みの範疇だろう。それこそ、「下品なやり取りを見て不快だった」というのは、「接客してくれたキャストが好みのタイプではなかった」という内容と同じことに思える。

 

 侮辱罪、名誉毀損罪、営業妨害に該当しうる場合なら「嫌なら見るな」という反論は批判としては的外れになるが、このケースは「嫌なら見るな」で済む話ではないだろうか。

 もちろん、ネットに公開されているコンテンツである以上、読者から「つまらない」「不快な内容だ」と批判されることはあるだろう。しかし、あくまでもそれ以上でも以下でもない話に思える。

 

「言動」なら批判していいの?

「おかしな言動の人については批判してもいいけど、容姿についてあれこれ言うのは良くない」というのは、たしかに近年はそういったコンセンサスは取れているのかもしれない、と感じることは多々ある。

(以前書いたブログでも触れたので、割愛)

www.wuzuki.com

 しかし近年、コミュニケーションに支障をきたす先天的な障害の話も、ネットでは定期的に話題になるようになった。

 また、美容整形の施術を受ける社会的ハードルも低くなっている。

 その点を踏まえると、「おかしな挙動をする人は、コミュニケーションスキル改善の努力を怠っているので、面白おかしく書いても良い」「容姿は本人の努力ではどうにもできないので、そこについて言及するのは良くない」という社会通念も、かなり恣意的なものに思えてくる。

 

 では、「容姿に関することも言動に関することも、他者についておおっぴらに言及するのは控えるべき」だと思うかというと、現段階ではそうすべきともあまり思わない。「個人のプライバシーが侵害されない限りは、原則として構わないのではないか」と考えている。

 

 容姿にしても性格にしても、技術の発展により、自分好みなものへのカスタマイズが容易に可能になったらどのように社会通念は変わってくるだろう……と考えることはある。ただそれはあくまでも思考実験であって、今現在の現実の問題を考える上ではあまり意味はないかな、と思ったりもします。

 

 9月中にブログを更新したかったので、ちょっと今回は駆け足で終わるよ。 

 

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恋と差別と多様な価値観

 最近、ネットで見かける意見で気になるものがある。

 結婚・恋愛メディアの「こうするとモテる」「こう書くとプロフィールの印象が良くなる。お見合いが成立する」という話題に対して、「差別を助長しかねない」というコメントがつくことだ。

 また、「安定した仕事についている、頼りがいのある男性」「フェミニンな外見で、料理上手で家庭的な女性」をそれぞれ異性がパートナーとして求めることを「古い価値観だ」と腐す人が散見されることも引っかかっている。


 確かに昨今、多様なセクシャリティやパートナーシップについても知られるようになってきた。

 だが、マイノリティな志向を持っていたり、ユニークな関係性を結ぶ人々は、なにもそれが「トレンドだから」「新しいから」実践しているというわけではないだろう。流行に敏感でなければいけないビジネスやマーケティングじゃあるまいし。


 異性愛や一夫一婦制、法律婚が自身の志向やライフスタイルと馴染まないから別の手段をとっている、取らざるを得ない……という人が大半だろう。

 

 そもそも「主夫業が得意な男性が好み」「バリキャリな女性が好み」という志向だって、別に特別新しいものだとも思わない。


 また、「本当は可愛いお嫁さんになりたいけど、夫の収入には頼れないから仕事もしている」「本当は大黒柱として頼りがいのある姿を見せたいけれど、実力が追いつかないので妻にも働いてもらってる」というケースもあるだろう。

「収入は少なくていい。家事や料理など主夫業が得意な男性が好み」「バリキャリで稼いでいる、カッコいい女性が好み」という志向ばかりが「正しい、あるべき姿」とされることに対しては反対したいし、そうでない人の価値観を叩く言説が増えることは危惧している。

 

 

 LGBTなど、性的マイノリティへの差別は昨今厳しくなってきているが、性的マジョリティの志向を「古臭い価値観だ」「旧来のジェンダー規範の固定化だ」と批判することについては、どうにも鈍感な人が多い気がする。

 人はなにも、新しい価値観を社会にもたらすムーブメントのために交際や結婚をするわけではないし、そうなるべきだとも思わない。


 どうしてこのような言動をする人がいるのだろうか……と考えてみたが、結局のところ、恋愛や結婚は「してもしなくてもいい、自由なもの」だと思っていない人が一定数いるからではないだろうか。

 

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 独身のまま生きることが困難な時代や、子孫や家族が共同体の維持に欠かせない文化圏では、異性と結婚して子をもうけることが「しなければいけないもの」だったのかもしれない。

 そして、「しなければいけないもの」だとするのならば、自由恋愛・自由意志に任せていると不均衡が起こり、特定の属性を持つ人が異性を獲得できないことも起こりうるので「差別問題、解消すべき問題」として扱われたかもしれない。

 

 たとえば、「しないと生きていけない」ことの代表格である「就職」の場合は、結婚や恋愛と同じようにはいかない。従業員について、性別や年齢、出身地や政治思想等を理由に採用試験で落としたり、解雇することは原則として禁じられている。(少なくとも表向きは)

 自由選択と差別の関係については、この、id:zyzy さんのコメントがとても共感できた。

私にとってタイトルやフェミニスト煽りは本筋ではなく、友人や結婚相手や交際相手を選ぶ時の「自由選択におけるリスク回避・選別志向が何をもたらすか」が課題で、偏見と差別の源に割となりそうなことを危惧している - lcwinのコメント / はてなブックマーク

前々から思っていたんだけどもこの理屈を言う場合、あらゆる私的な趣味含めた買い物自体「国家の計画通りかサイコロ振って毎回決めないと生産者への差別と分断」になるし、それ自体人間性の否定と思うんですよね。

2019/07/11 08:05

b.hatena.ne.jp

 

 もちろん程度問題になる部分はあるだろう。恋愛も結婚も自由にできる時代とはいえ、誰かとつがいになりたいという欲望自体は多くの人が持ち合わせているし、パートナーを獲得できない人の辛さを放置することが、社会を脅かす事件に繋がることもあるかも知れない。

 だが、「非モテ」な人をパートナーに選ばない人に、その不作為の責任を問う訳にもいかないので、その辛さは別の形で満たす必要があると考えられる。

 

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 差別の話に戻ろう。

「そもそも、好みのタイプやセクシャリティ、結婚・家族観の話を人前でするのは下品である」という主張ならまだわからなくはない。たしかに場合によっては、そういった話題はセクハラになるケースもあるだろう。


 また、「モテるためにジェンダー規範をなぞる人が増えることで、人の多様な個性が隠れてしまうのが勿体ない」という気持ちは私もよくわかる。
 実際、「異性にモテたいけれど、そのためにジェンダー規範に乗ることには抵抗がある」という人も一定数いるように思う。だが、「そこでどのように個性とモテのバランスを取るか」ということを考えることもまた、人間関係構築の面白さであると言えるのではないだろうか。

 

 これが「恋愛や結婚は、人は必ずすべきもの」という時代であれば、モテない人にもなんらかの介入はあるべきであろう。

 だが、「恋愛も結婚も、してもしなくてもいいもの」である現在は、「モテたい人は、自分でそのための努力をしなければならない」「他者に振り向いてもらいたいのならば、それ相応のコミュニケーションやアピールのスキルが求められる」となってしまうのは仕方ないのではないだろうか。

 

 そういった、モテたい人が生きやすくなるためにも、他者の価値観について「古い」とケチをつける人が減り、広義の「性の多様性」が広まれば良いなと思う。

 

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