11月は思いのほか充実していて、まるでなにかの物語みたいにいろんなコトが起こります。コメディみたいな展開が起こったり、大学時代に戻ったみたいにワイワイしたり。
まだまだ、wuzukiちゃんは遊びたいです。
……さて今回の記事では、少し今更感がありますが、「献血ポスター炎上騒動」について触れてみたいと思います。
これはどのようなものか知らない方向けに説明すると、
漫画「宇崎ちゃんは遊びたい!」のイラストを使った日本赤十字社のコラボポスターが「性的だ」と批判を受けたことを皮切りに、ネットで賛否両論が巻き起こっている......という経緯の騒動です。
このポスターを擁護する意見としては、
「着衣のイラストで、特に性的だとは思えないので別にいいのでは」
「このポスターが貼られていた場所はそもそも限られていた。もともと多くの人が見るものではなかったはず」
「この絵はコミックスの表紙。問題のある絵柄だというのなら、書店からも撤去すべきということになる」
「巨乳キャラを使うことが良くないというのは、巨乳女性への差別になるのでは」
「このコラボキャンペーンによって献血する人が増えるのなら良いのでは。人命のほうが個人的な快不快より優先されるべき」
「体質の問題から、女性よりも男性のほうが献血可能な人は多いし、オタクには童貞が多く感染症リスクも少ない。男性オタクに訴求するエロいポスターを作っても別に良いのでは」
「撤去や規制を求めるのならば、明確な基準が設定されるべき。感情論で規制されるのはおかしい。環境型セクハラだというのなら訴訟を起こすべきでは」
「このような広告があることで差別が助長する、というエビデンスはないよね」
「もっと性的な広告なんていくらでもあると思うのに、萌え絵ばかり批判されるのはおかしい」
「これが宇崎ちゃんじゃなくて、ONE PIECEのナミや、ルパンの峰不二子だったらきっとここまで批判されなかったよね」
というものが多く、
批判的な意見としては、
「着衣のイラストであっても、構図や作品の文脈次第で性的要素が強いものにはなりうる。下から煽るアングルは性的になりうる」
「漫画そのものの広告ならともかく、日赤のキャンペーン広告として適切とは思えない」
「全年齢対象の作品とのコラボならどのようなものでも問題ない、というわけではないだろう」
「問題なのは、いわゆる”乳袋”表現。性的表現の文脈で取り入れられる手法だから、エロじゃないというのはお門違いでは」
「大きな胸を強調した服装をすることと、創作物で性的なサインを込めて巨乳キャラを描くことは違う。キャラクターは読者の性的な視線を意識したものだけど、生身の女性の身体は男性が楽しむためのアイテムではない」
「性的文脈で胸を強調する表現こそ、現実の巨乳女性の肩身を狭くする」
「『エロいポスター作ればオタクも献血するだろ』という姿勢こそオタク蔑視では?」
「オタクには童貞が多いので感染症リスクが少ないので献血に適している、というのは、多方面に対する差別的な考え方では」
「萌え絵が悪いのではなく、使いどころが問題だと思う」
「30年前は水着の女性のポスターが職場に貼られていたけど、環境型セクハラと批判されて、やがてなくなった。萌え絵だから批判されているわけではない」
「この広告に問題はないので議論は不要、という態度の人に違和感がある」
というものが見受けられました。
※「イラストよりも、宇崎ちゃんのセリフのほうが問題あるのでは」という意見も多かったけれど、こちらに対してはあまり意見は分かれませんでした。
私自身は、この件に関しては批判的な立場に近いです。
イラストに関しては、黒い服ということもあり「乳袋」表現は目立ちにくかったので、その点はあまり特に気になりませんでした。どちらかというと、煽るようなセリフのほうが気になりました。(宇崎ちゃんのキャラとしてはしっくり来るセリフなので、漫画の中にあったら気にならない表現だったと思います)
ただ、私個人はイラストはあまり気にならなかったものの、批判的な意見がこれだけ多く集まり、本来の目的とは関係ないところで議論も白熱したことから、広告としては成功とは言えないのでは……? という点から、このポスターには批判的です。
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そもそも広告は不快なもの
誰一人指摘していなかったけど。そもそも「広告」って、基本的に「邪魔」で「不快」で「迷惑」なものなんですよね。ノイズとして映るのは当然なんですよ。
一方で、私たちのまわりにはあらゆる「広告」であふれています。ポスターや看板、テレビや動画のCMのほか、ダイレクトメール、営業電話、チラシ配り、フリーペーパー、展示会、試飲や試食、謝礼つきアンケート、ライブやパーティーなどのイベント告知……。
少し毛色は違うけれど「選挙活動」とか「婚活」「ナンパ」なども、広義の「広告」と言える場合もあるかもしれませんね。
今回の日赤のポスターは特に不快ではなかったという人の中にも、今まで、ほかの広告について「迷惑だ、不愉快だ」と思ったことがある方は多いと思います。
そこで「営業電話は迷惑だけど、条例や法律に反するわけではないのなら、不快だと言うのはおかしなことだ。個人のお気持ちで企業の営業活動を阻害してはならない」と考える人はあまりいないのではないでしょうか。
ちなみに現行の法律では、9時〜21時以外の時間帯での電話営業は法律違反となっているため、22時に電話がかかってきた場合などは、法的な処分を求めることも可能かもしれませんね。
感情論で良いのでは?
「不快だ、という感情論で表現を規制すべきではない」「問題があるというならエビデンスを示せ」という意見も多く見受けられました。
私は、感情論の多寡で撤去・変更等の判断をすることは基本的には妥当だと思います。
そもそもこのポスターは「広告」なので、ネガティブな感情を抱く人が多い広告を撤去・変更したとしても、それは運営側の判断として妥当なケースも多いのではと思います。(今回の件は、特に撤去や変更がなされることはなかったようですが)
「私が不快だから撤去してほしい」というならまだしも「社会的に不適切だから撤去してほしい」と主張するのならばエビデンスが必要なのでは、という意見も見受けられました。理屈としてはわかります。
女性表象を用いることについての批判や研究は、メディア論、表象文化論、フェミニズム等の文脈での蓄積はあるとは思いますし、広告業界の中でも存在するでしょう。
署名運動を行う場合や学術的な発表の場合はともかくとして、市井の人の問題提起の際に、エビデンスを求め「因果関係を証明できないものに対しては、疑問や批判を示すな」と封じることもまた一方的なように思います。多様な意見を取りこぼしかねないのではないでしょうか。
肌の露出がなければいいの?
「肌の露出がないから、エロい・性的とは言えないのでは」という意見もありましたが、肌の露出が多い人物表現=性的意図の表現、とは必ずしもならないでしょう。
たとえば、赤ちゃん用おむつのCM、日焼け止めのCMで水着の人物が出てくること、相撲のTV放送などは一般的であり、人物の肌の露出や「エロさ」の観点から批判が出ることはこれまでありませんでした。
社会通念としても、「肌の露出が多いものはそれだけで性的表象となり不適切だ」とは、認識されていないと考えられます。
オタク差別に該当する?
「同じ巨乳キャラでも、ナミや峰不二子だったら叩かれないんだろう。オタク差別だ」という意見もありました。
藁人形論法になってしまいますが、仮に有名キャラを起用していた場合は好意的に受け止められていたとしても、それは別におかしなことではないかなと思います。
すでに一般的に知名度の高い、国民的有名作品のキャラクターが起用された場合と、そうでない作品のキャラの場合では、受ける印象が異なることは当然といえるのではないでしょうか。
(ただ、たとえば「ONE PIECEとのコラボ」企画なのに、ナミだけが広告に起用されていたら、そこになんらかの意図を見出して批判が起こる可能性はあるのではないかと考えられます)
ただ今回、議論の発端となった批判的な意見をツイートしたのはアメリカ人男性なので、国民的人気作品のキャラであっても、そこに馴染みのない外国人だと反応は違うかもしれませんね。
「萌え絵を叩きたいだけだろう」という意見もありましたが、それもまた的外れだと思いました。
(「萌え絵はそもそも性的な感情を喚起するために描かれたものなのですべて不適切」という意見もあるかもしれませんが、そのような批判は主流ではありませんし、同様の批判はグラビアアイドルの仕事などにも言えるため、アニオタへの差別と括ってしまうのは雑かなと思います)
いわゆる「萌え絵」を使った広告はこれまでも多数あり、たとえば「ガールズ&パンツァー」のキャラが水着を着てはしゃいでいるポスターもありましたが、これはおおむね好意的に受け入れられていたのではないでしょうか。(股間の陰について気にしていた人もいましたが、ごく少数の意見だったと認識しています)
近年になって「萌え絵」の広告が批判されがちだとするのなら、アニメ・漫画文化が一般に広まってきたことと表裏一体でもあるのかな、と思います。
30年前は女性をコンパニオン的に消費する文化があり、一方で、幼女誘拐殺人事件の報道の偏見等で、オタクが差別されていた背景がありました。
ところが10年ほど前から、オタク文化もポジティブにメディアに取り上げられるようになります。
一方で、ハラスメントや性的消費に関しては、批判の声を上げやすい時代へと変化していきました。
ざっくり言うと、オタク文化の一般化のタイミングで、ポリコレへの意識が高まってしまったことが、ある種、不幸な巡り合わせだったのではないかと……。
なので、30年前のオタク差別と萌え絵への批判というのは、似て非なるものだと考えています。
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血液が集まればいい?
「性差別的だとしても、このポスターによって献血する人が増えたのなら施策としては成功なのでは」という意見も一定数見受けられました。
程度問題な部分もあるとはいえ、「誰かを差別したとしても、便益が上回れば良いのでは」という意見は手放しに賛同できないです。
「外国人を差別したとしても、それで治安が保たれるのなら良いのでは」「ブラック企業が多くても、そこで国の税収が増えるのなら良いのでは」などの考え方にも繋がりかねないため、危険な考え方だと思います。
広告はコミュニケーション
「どこまではOKでどこまでがアウトなのか、線引きを決めるべきだ」という意見もありました。
これは、少し的外れな意見だなと。
広告にしてもセクハラ問題にしても、受け手との「コミュニケーション」なんですよね。
何を誰に伝えたいのか。どのようなメディアで発信するのか。今、何が起こっていて何が流行り、どのような社会情勢なのか……。
そういったさまざまな事情を踏まえて成立するのが、エンゲージメント率の高い施策なのではないでしょうか。
事前に細かくルールを制定してしまうと、かえって時勢の変化を取りこぼしやすくなり、かといって頻繁に変更してはルールの意味もなくなるため、ルールの制定は不要だと私は考えます。
「◯◯は叩かれないのに、今回の××は叩かれるのはおかしい。◯◯も批判されるべきだ」という意見も見受けられましたが、これも、そもそも「コミュニケーション」をあまり理解していない意見だと思えます。
類似の表象を扱いつつも、炎上せず好意的に受け入れられている事例があった場合、「◯◯も炎上させるべきだ」と足を引っ張るのではなく、その事例を参考にして、なぜ炎上しなかったのか・どのような点が好意的に受け入れられたのかを考えてみたほうが良いのではないでしょうか。
また、これは、読んだ本からの受け売りでもあるのですが。
近年炎上している広告表現って、軒並み、ネット上で公開されているプロモーションであることが多いんですよね。
地上波のテレビCMは予算も人手も豊富なため、放送局と広告主の双方による細かい審査があり、炎上しそうな表現はあらかじめ弾かれています。一方で、インターネットCMは予算が低いぶん自由度も高く、テレビCMほど厳重な審査は行われていない、という違いがあります。
表現規制には反対するという人の中でも、「テレビCMに厳密な審査があることは、表現規制だ」と批判している人は見たことがありません。
世に出る前に審査によって制限されていても「規制なんてとんでもない!」とはならないのに、世に出たあとに批判が起こると「表現規制、反対!」という声が上がるのは、なかなか皮肉な現象にも思えます。
私は別に、あらゆる広告において細かい審査がなされるべきだ、というつもりはありません。
ただ、ターゲット以外が目にする可能性が高いことを考慮したり、発表することで起こりうる反応を想定し、どのように対応するかを考えておくだけでも、また違ったコミュニケーションが生まれるのではないかな、と思いました。