これからも君と話をしよう

一度はここから離れたけれど、やっぱりいろんな話がしたい。

場数を踏むのは悪いこと? コミュニケーションについてあれこれ

 こんな人生相談が話題になっていた。

dot.asahi.com

 私自身は、劇作家やエッセイストとしての鴻上尚史については大ファンで、劇作家の中ではいちばん好きだし、脚本もエッセイもDVDもいくつも持ってるし京都まで講演を聴きにいったこともあるくらいだけど、正直この人生相談の連載はそれほど面白くないと思っているので、ネットでもてはやされているのがよくわからない……とは以前から思っていた。(人生相談は、岡田斗司夫ラブホの上野さん、幡野浩志、が私の中での三大トップ。ちなみに脚本家は鴻上尚史本谷有希子が私の中でのツートップで次点は成井豊かなぁ)

 

 この相談については、「久しぶりにほがらかな相談でなごんだ」という意見もあれば「他人を練習台にするのは失礼だ」「男慣れしていない女性を狙うな」という意見もあるようだ。

 個人的には、正直この回答って目新しくはなく、特段面白くもないので賞賛する人にも共感できないし、批判している人が求めるお行儀良いコミュニケーションも人間というものをわかってないな感があってゲンナリした。

 

 今回、批判的な意見の対象となっているのは、本文にある、

女性慣れするには、女性と何度も話すしかありません」

「4月、大学のクラスでいきなり可愛い女の子に話しかけるなんてのは、130キロぐらいのバッター・ボックスに立つことです。バットにボールが当たるわけがありません。そもそも、130キロは怖いです」

「そういう時は、クラスで「男性と会話することに怯えている女性」を見つけましょう。『6年間、女子校でした。男性とどう話していいか、まったく分かりません』なんて人がいるかもしれません」 

の、くだりのようだ。

 

「練習」は、悪いこと?

 人間関係の構築は、結局は生身の人との交流の場数がものを言う。

 もちろん、恋愛セミナーに通ったり、コミュニケーションについてのワークショップを受講することや、本や映画などから人間の機微を学ぶこともできるだろう。特に読書は、普段の実生活ではなかなか会えない立場の人や、異なる文化圏の人への想像力を働かせる一助にもなるだろう。

 だがそれにしても、セミナーやワークショップでのコミュニケーションはある程度「予定調和」なところがあるだろうし、「読書とは著者との対話だ」みたいな考え方もレトリックとしては好きな考え方だけど、やはり生身の人間との会話のキャッチボールとは質を異にするものだろう。

 そう、今回の相談に対して、「野球に例えるなんて失礼だ」とか「イチゴに例えるなんてキモい」という批判もあったが、「会話のキャッチボール」とか「井の中の蛙」など、比喩にはさまざまなことばが使われる。特に侮蔑的な意味で用いられてもいないだろうし、当人が言われたわけでもないのに騒ぐのは的外れに思えた。

 

 そして、若いうちの人間関係が「練習」になるのは致し方無い部分はあると思う。

 もちろん、だからといって相手を邪険に扱って良いわけではないが、これは大学生になる18歳だけでなく、幼稚園や小学生の子でも同種のことは言えるだろう。

「仲良しなお友達を作りたいのなら、自分から話しかけてみよう。まずは自分と似た雰囲気の子や、話しかけやすそうな雰囲気の子に声をかけてみたら?」という助言はなんらおかしなものではないと思うし、なんなら「スクールカースト」なんて言葉もあるように、学校ではだいたい似た雰囲気の者同士でつるむことが多いのではないだろうか。

 異性と仲良くなりたい場合でも、いきなりコミュニティの人気者に話しかけることを目指すよりは、自分と似たタイプに見える人との交流を試みるというのはまっとうなアドバイスだと思う。

 (キャバクラや性風俗店キャストとの交流を勧めるコメントもあったが、それらはあくまでも「お金との対価」としてのコミュニケーションであり、日常生活のコミュニケーションとは大きく異なるものではないだろうか)

 

トラウマでの批判は悪いこと?

 批判的な意見の中には、「自分自身が学生時代、そのような男性に寄ってこられて迷惑だった」という女性のものも複数あった。

 過去のトラウマを思い出したひとは、それはそれで気の毒ではある。

 ただ、この相談者から実際に話しかけられて困ったわけでもないひとが「こういう動機で話しかけてくる人は不愉快なものに決まっている」と事前に推測でケチをつけ、コミュニケーションのはじまりを腐すこともないのでは、と思う。女性慣れしていない男性を、まるで犯罪者予備軍かのように扱うのも大概失礼な意見ではないだろうか。

 そもそも恋愛であれ友情であれ、人間同士である以上、どこかで摩擦が起きることはあるだろう。気乗りしない誘いは断っていいし、相手の言動で不快になったらそれを伝えればよい。傷つけてしまったらまずは謝る。よっぽどのことでない限り、取り返しのつかないことにはならないだろう。

 雇用主と従業員、教職員と学生……という権力勾配のある関係ならともかく(権力勾配の使い方これで合ってる?)、クラスやサークルのコミュニティ間なら、私的なアプローチそのものがただちにハラスメントと直結することもない。 

 

男女逆だったら?

 以前、話題になった結婚相談所ブログで、女性向けの婚活記事にこのようなものがあった。

ameblo.jp

 この記事も、「失敗してもいい相手で練習」というところに引っかかっていたひともいるようだが、

「自分の求めるスペックの相手ではないからと無碍に断るより、会ってみたら意外といい人で成婚するかも」という言葉で動かない人向けのマジックワードでは……というコメントに納得したひとも多いようだ。

 

 そもそもコミュニケーションは、すべてが「練習」であり「本番」でもあると思う。

 それこそ演劇のように練習と本番が明確に分かれているものではない。なので、「練習」が、ただちに「失礼なこと」になるとはあまり思えなかった。

 

 私も含め、「大人になってからの交友関係のほうが、子どものころよりも楽しい」というひとは多い。これは、大人になってからのほうが行動範囲を広げやすいこと・付き合いを選びやすいことももちろんあるとは思うが、そうやって人間関係を「選ぶ」ことも含め、「場数を踏んできたので、子どもの頃よりもコミュニケーションがこなれてきた」という部分も大きいのではないかと思っている。結果として、若いころの人間関係のあれこれが「練習になっていた」ということもあるだろう。

 

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順序付けるのが悪いこと?

 そもそも、どんな人間関係も多かれ少なかれ序列はつきものだろう。人気ランキングとかそういう話でなくても、大親友もいれば顔見知り程度の関係もいて、関係に濃淡がある人間関係が一般的だ。

 現在仲が良いわけではないひとに対しても、「憧れの存在で恐れ多い」「ちょっと気になる、仲良くなってみたい」「まぁ別に、悪い印象はない」など、いろんなタイプのひとがいるだろう。

「あなたは序列でいうとn番目だから話しかけた」なんてさすがに露骨に言うのは失礼だが、そんな言い回しをする人はそうそういないだろう(し、言われた時点で「それは失礼だよ」と伝えたり、怒れば良い)。

 自身の手の内を相手に伝えてしまうのは失礼になりかねないが、コミュニケーション戦略を考える段階で、順序付けやカテゴリ分けが特段批判されるべきことではないだろう。その表出にはもちろん配慮は必要ではあるが、「いちばんすてきだと思える人以外には一切アプローチしてはいけない。失礼だ」となると……そもそも、私も含めおそらく大半のひとがあぶれてしまうのではないだろうか……。

 

「彼女を作りたい」という動機が問題?

 そもそもどのような関係であれ、人間関係は多かれ少なかれ打算を含むものだと思う。「教室でひとりで浮きたくない」「悩みを相談しあえるママ友が欲しい」「趣味友達を増やして情報交換したい」などの事例は枚挙に暇がないだろう。

「本当に仲良くなりたい人というわけではないのに、一緒にいようとするのは失礼だ」「相談相手や情報交換に、専門家でない人間を利用するな」なんてことを言う人もまずいない。

 また、ボランティア活動やサークル活動などでも「内申書が有利になるから」「就活でアピールできる」「恋人が欲しいので出会いの幅を広げるため」なんて動機で入る人も山ほどいるだろう。むろん、その動機を関係者に露骨にアピールしたら嫌がられることもあるだろうし、トラブルも起こりかねないが、内心はどうであれ、活動をしっかり行えば別に良いのではないだろうか。

 

 また、性愛絡みの目的だけがただちに問題視されるべきだとは思わない。人間関係のトラブルは、いじめやパワハラ、金銭の貸し借り、ネットワークビジネス新興宗教への勧誘等さまざまなことが起こりうる。「いじめに繋がりかねないので、学校の同級生に声をかけることはNG」なんてことを言う人もいないだろう。

 

「人間扱いしていない」のが問題?

 この相談に対する批判的な意見の中で、

"「女子との付き合い方がわからない」ってことは「人間との付き合い方がわからない」ってことでしかない"

というものがあった。

 これは、「女子」の部分を「子ども」「お年寄り」「外国人」など、ほか属性を入れても成立しそうな話ではある。じぶんとは異なる要素の多い他者との交流に戸惑うことはだれしもあるだろう。

「特別扱いする必要はない」「特別扱いされると、居心地が悪い」という主張はわからなくもない。また、女性を過度に神聖化することも女性蔑視をすることも、どちらも同じ「人間としてみていない」ことになるから差別的だ……という意見もわかる。

 ただ、それを「異質な他者との付き合い方がわからないということは、人間との付き合い方がわからないということだろう」と矮小化してしまうのは、問題を見失い、相談者にとっても相手の側に立ってもなんの役にも立たない表現だな……と思ってしまった。

 また、逆説的ではあるが、ある程度交流が深まっていくことで「異質な他者」たちも「ひとりの人間」としての側面が見えてくる、という部分があるだろう。その点からも「まずは人間扱いしろ」という主張は無意味だなと思った。

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そもそもコミュニケーションに正解はない

 私が今回いちばん言いたかったのはこれだ。昨今のネットではどうにも「お行儀のいい、政治的に正しいコミュニケーション」のみ行われるべきという風潮が強くなってきているが、これには異を唱えたい。

 人間関係、特に恋愛に関しては、いわゆる「正しい」振る舞いが魅力的に働くとも限らない。傍若無人な美少女に振り回されたり、強引な俺様イケメンに迫られたり……というシチュエーションを肯定的に描いたフィクションは枚挙に暇がないし、あなただけを「特別扱い」するからこそ、ときめいたり、恋愛として成立する……という部分は大きいだろう。モノアモリー関係では特に大きいのではないだろうか。正しい振る舞いにしかひとがときめかないのならば、「不倫」など存在しないはずだ。

 もちろん個人の好みとしてはさまざまだとは思うが、人間性と恋愛市場での人気が必ずしも一致しないことはわかっているひとも多いのではないだろうか。そこを無視して正しい振る舞いをすべきだと主張するのは、欺瞞にも思える。

 

 もちろん、広義の女性差別はまだまだ残っているからこそ、「正しい」振る舞いがもっと啓発されるべき、まずはそちらが先……という考えにも一理ある。 ただ、こちらがいきすぎると「ナンパや痴漢を喜ぶ女性は頭がおかしい」などの、別方向の抑圧に繋がる可能性も危惧している。欲望のあり方はそう単純な話でもない。それこそ、昨今叫ばれている「多様性」が、もっとも複雑に交わってくる領域だと思っている。

 このあたりの話を、単純な男女論や「正しさ」の枠組みに押し込めようとすることこそが、この相談にまつわる話題の中で私がいちばん引っかかったことだった。みんなわかってるよね、欲望ってそんな単純な話じゃないって。そりゃ、単純化したほうがわかりやすいけど。それで救われるひとも多いけど。

 差別的な振る舞いと欲望について、世の中も個人もどう折り合いをつければいいのかはわからない。ここに関しては投げっぱなしでとりあえず終わらせてもらう。

 

 最後に、相談者のポンプ君、大学入学おめでとう。

 

恋愛王 (角川文庫)

恋愛王 (角川文庫)

 

  鴻上氏の恋愛本といえば、私はこの本を10年前、大学時代に読んだ。

 本は手元にないし、内容は覚えていないけれど、とても面白い本だったように記憶している。当時ブログに書いた感想を抜粋。

まさに「良質な恋愛エッセイ」。著者の、多様な価値観を受け入れる姿勢がとてもあたたかく、じんときた。そして村上春樹を読みたくなる。読み返すたびに違った感想を抱けそうだ。鴻上尚史ってほんとうに小説家なんだなぁ、ということをひしひしと感じた1冊。まさに、著者と「対話」する感覚で読めた。つかこうへいや野田秀樹といった劇脚本家の名前が出てきたのも嬉しかったし、成井豊のとある劇の元ネタのSF小説が紹介されていてちょっとびっくり。この本は現代にも通用する内容も多い反面、時代を感じさせるエピソードや恋愛観の変化なども読みとれる。