これからも君と話をしよう

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多数派の生き方を求めるのは悪いこと?「社会はリベラルに運営〜」記事への雑感②

 前回の記事の続きの話題を書いてみたいと思う。下記の記事を読んでの雑感だ。

gendai.ismedia.jp

 

 この記事の、5ページ目、6ページ目の内容にも目が止まった。

また、大多数の人にとっては、信頼できるパートナーと恋愛したのちに結婚をして、子どもをつくるほうが、そうでないよりも幸福になりやすいのだ。

 

「人生にとって恋愛とは大切なものである」「結婚したほうが幸福になりやすい」という主張にも、女性や性的少数者を抑圧して男性や異性愛者にとって都合のいい社会を維持するための家父長制的なロマンチック・ラブ・イデオロギーである、といった批判がなされてしまうのだ。

これらの批判は、必ずしも的外れなものではないかもしれない。そうした議論が少数派の人々にとって抑圧的なものになってしまう事態は避けるべきだろう。しかし、大多数の人にとっては、常識的な幸福論を参考にした生き方をするほうが、結局のところは幸福になりやすい。

 ここに関しては私も前から同じことを思っていた。

 私自身、さまざまなところで「マイノリティ」要素を感じることもあり、世間が求める「普通」を求められることが辛いときもあったにせよ、そんな私でも、

「でも、大多数の人にとっては、いわゆる『普通』に生きることで最大公約数的な幸せが手に入るのでは」

「『普通にしたくてもできない』人に『普通じゃなくてもいいんだよ』『普通へのこだわりを捨てようよ』と言われても、そうじゃない感が強い」

ということは感じていた。きっと、同じように考えている人も多いのではないかと思う。

 もちろん、大多数の人の傾向がそうであるからといって、個別の人の人生においてどのような生き方が本人にとって望ましいかは分からない。そして、どのような生き方が望ましいか望ましくないかに関わらず、その人生を引き受けて生きていかなければいけない場面もある。それを言いたくない、悪者になりたくない人が「普通を目指すことから降りても良いんだよ」と主張しているのではないか……? と感じる場面はたびたびある。

 確かに、ヒトの感情も電気信号の一種ではあるので、何らかのトレーニングや認知行動療法的なものを使うことで、本能として求めてしまう欲求を別方向に向けることは可能かもしれない。そういった手法が広まることで幸せになれる人も一定数いるとは思う。

 ただ、「今の人生が孤独で寂しいので、ひとりでいても寂しくないよう認知を変化させたい」というモチベーションを持つ人はそもそもあまりいないだろう。今の人生が寂しいと思う人は「認知を変化させたい」ではなく「恋人や友達を作りたい」という欲求を持つことが「普通」だろう。

 

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 また、私は先日、下記のブックマークコメントにも書いたが、
 近年はもはや一周回って「モテなくて苦しいのなら、男らしさから降りよう」ではなく「モテなくて苦しいのなら、モテる男になるよう努力しよう」「努力の方向性を見直そう」というメッセージを増やしたほうが良いのでは、ということも感じている。

b.hatena.ne.jp

 

 そして、そのような「モテる」ことを目指す人が、「恋愛脳w」などと揶揄されることがなくなれば良いな、と思っている。

 

 

 ちなみに、この「普通のことに縛られるほうが幸せ」ということに関しては、下記の本にも似たような回答があった。

 こちらの「お悩み19」にも同じような話が載っていたので、興味を持った人はぜひ読んでみることをおすすめしたい。

 Webサイトのほうの、ラブホの上野さんの人生相談のページにも似たような相談が載っているが、こちらの回答は、本の中での回答とは少し異なるものになっている。読み比べてみても面白いのではないかと思う。

ueno.link