これからも君と話をしよう

一度はここから離れたけれど、やっぱりいろんな話がしたい。

二十年の孤独 ──代々木の森から──

 ふと思うんです。代々木生活も、長崎生活も、佐賀生活も、本来別々の人間が過ごすはずの人生だったんだろうな、って。それがなにかの手違いで、私というひとつの身体で使いまわすことになってしまっている。そう考えています。
 そう考えると、ほんとうにいろんなことがしっくりくるんですよね。そう思わないとやっていけないだけ、かもしれませんが。

 

 2019年1月22日(火)、18時20分過ぎ。JR飯田橋駅のホームで、私は硬直していた。足がすくんで動けない。なんだこれ。

 これから向かうのは、東京ボランティア市民活動センター。ドキュメンタリー映画の上映会が行われる。

 映画のタイトルは沖縄から叫ぶ 戦争の時代。自主制作のドキュメンタリーだ。沖縄の辺野古新基地、自衛隊基地建設問題を扱う作品らしい。

 

 私の今回のお目当ては、映画そのものというよりは、この映画を撮った監督だった。

 とうとう再会できるのか。何年ぶりになるんだっけ。────20年か。

 あのとき9歳だった私は29歳になり、44歳だったひとは64歳になる。

 そうか。それだけの歳月が流れたのか────。

 

 

 ……あれっ、今は何年?

 ここは、どこ────?

 

1997年 代々木

「3年1組の担任は、湯本雅典先生です」

「「イェーイ!!」」

 1997年4月、渋谷区立代々木小学校の始業式。クラスのみんなが喜びの声を上げた。

 前月に8歳になったばかりの私は、4月に3年生になった。半年前に岡山から転校してきた私も、代々木の生活にも少しずつ慣れてきた。ちょっと内気な性格もあって、あまり仲のいい友達はいないけど……。

 代々木小学校は、都心ど真ん中にある小さな小学校だ。全校生徒も120人ちょっと。どの学年も、1学年20人くらい。

 担任になったのは湯本先生。ほかの学年の生徒からも「ゆもちゃん」と親しまれている、おもしろい先生として人気のおじさん先生だ。そんな湯本先生が担任だから、みんな大喜びだった。

 

 そんな湯本先生は、「おもしろい先生」である以上に「アツい先生」だということがやがてわかってきた。

  特に、朗読や演劇はすごく熱心だった。先生の感情の込め方が半端なかったのはもちろん、生徒が感情を込めて音読をすることを、積極的に奨励していた。

 登場人物になりきって朗読することは、恥ずかしいことじゃない。内気でおとなしく言いたいことの半分も言えないような私だったけど、教科書の朗読や演劇、そして、それを褒められることを通じて、少しずつ積極性が身についていった。そういう姿勢を笑うような同級生もいなかった。外国人や帰国子女も多かったことも関係あるかもしれないけど、とても恵まれていたと思う。

 

 また、詩の授業をきっかけに、クラスでは詩を書くブームが生まれた。みんながあれこれ詩を書いて先生に提出するものだから、クラスに詩の専用のポストまで作られることになった。

 ポストに入れた詩には、先生がコメントをつけて返してくれる。それだけではなかった。投稿された作品のうちのいくつかは、学級通信とは別に先生が作った詩のフリーペーパーに載せてもらえることもあった。

 フリーペーパーは、うちのクラスだけではなく職員室でも配布されていたらしい。それを読んだ音楽教師が作品に曲をつけて歌にして、音楽の授業で歌ったことも何度かあった。私が書いた詩に曲をつけてもらえたこともある。クラスで飼ってるモルモットが食いしん坊だとか、そんなことを書いた詩だったような……(笑)。

  そういえば先生は、動物の命などについての教育も熱心だった。友達関係、いじめ、不登校、命、生きもの、については特に重きを置いていたように思う。

 

 ところで、この頃の私はアトピー性皮膚炎に悩まされていた。空気や水のきれいな岡山から引っ越してきた私にとっては、都会のそれは肌に合わなかった。身体のあちこちの皮膚がただれ、顔から足まで湿疹ができ、とても汚い肌になっていた。

(ちなみに大人になった今でも都内の水道水は肌荒れするので、入浴には塩素除去の薬が欠かせません……)

「その顔や脚のぶつぶつ、気持ち悪いな」

「こいつの隣の席、なりたくねーよ」

 クラスの男子たちから、肌の汚さでいじめられるのは時間の問題だった。私の身体は、太ももの裏と顔がとくにひどいことになっていた。

「ちょっと、そういうのやめなよ、男子」

 女子は、かばってくれる子が多かったのが救いだった。

 

 ────そんなある日のこと。私の体操服袋が、男子トイレの便器の中に入れられているという事件が起こった。

 これまでも、悪口を言われたり、席を離されたり、上履きがおかしなところに置かれたり、軽く叩かれるようなことはあったが、こうやって持ち物が汚されるいじめは初めてだった。

「ひどーい!」「誰がやったんだろう」と怒りを口々に表明してくれた子がいたのは心強かった。湯本先生も、この件について真剣に向き合って下さったのが嬉しかった。そのせいなのか、「持ち物が汚されて悲しい」という気持ちには、不思議とならなかった。この体操服は先生が持ち帰り、自宅で洗って下さった。

 

 

 そんなことがありながら、やがて私たちは4年生になった。この年、私の妹も1年生として入学してきた。

 3年生から4年生になるまでのあいだに、何人かの同級生は転校していった。そのかわり、何人か新たな仲間が加わることもあった。茨城や千葉、北海道などさまざまな場所から転校生が来た。

 

 ────ある日。ずいぶん中途半端な時期に、ひとりの転校生がやってきた。それがKくんだった。

 Kくんは少しぽっちゃり体型だったこともあり、やがて乱暴な男子からいじめられるようになった。それまでクラスで一番いじめられていたのは私だったけど、どうやら、Kくんは私以上にいじめられていたようだ。

 でも、私は知っていた。Kくんは、クラスで飼っているモルモットをとても可愛がる、心優しい男の子だということを。ほかの男子とは違うな、と思っていた。

 

 

 ────そんな中、クラスのAちゃんがあまり学校に来なくなった。

 Aちゃんは私にとって憧れの女の子だった。どのくらい憧れだったかというと、彼女が小4のときにくれた年賀状のメッセージが私にとって宝物で、中学まではお守り代わりに持ち歩いていたくらい。高校時代、前略プロフの「憧れの人」には「小学校時代の同級生Aちゃん」と書いていたくらい。

 Aちゃんは劇団経験があるのか、演技がものすごく上手い。私も先生から演技を褒めてもらえることはあったけど、彼女にはかなわなかった。容姿も整っていたと思うけど(ポッキーのCMの新垣結衣に似ていると思った)、どちらかというと、独特の感性を持っていておもしろおかしなキャラクターの印象のほうが強かった。みんなを笑わせるユニークさを持ちながら、不思議で複雑な感受性をも持ち合わせた女の子。それがAちゃんだった。

 Aちゃんが学校に来なくなったことを、先生は当初はとても気にしていた。ただ、やがて「無理に学校に来るべきだとは思わない。不登校も悪いことじゃない」ということを話していた。当時の私にとっては、教師がそういうことを言うのは少し意外でもあった。

 

 

 ただ、先生は、勉強を疎かにしていいと言っているわけではなかった。基本的には、とても面倒見の良い先生だった。

 特に、Kくんの勉強はすごく気にかけていた。家庭事情もあり、勉強に取り組むのが困難なKくんの家に放課後訪れ、何人かと「じゃがいも塾」と称した学習会を行っていたようだ。このことを知ったとき、先生の熱意には胸を打たれた。

 

 また、学校での授業でも、発展的な学習のようなことを取り入れていた。代々木小や渋谷区の方針ではなく、おそらく湯本先生独自のスタイルだろう。

 たとえば、国語の教科書に載っていた「一つの花」という物語について、授業で扱ったあと、著者の今西祐行さんに連絡を取り、感想文を送っていたこともあった。

 また、社会科の授業で地域の違いについて勉強する際も、北海道と沖縄の小学校に連絡を取り、地域の特色についてクラスでビデオレターを撮って送り、交流する……ということを行っていた。北海道の小学校は、北海道から来た転校生の男の子が以前通っていた学校に連絡を取っていた。沖縄の小学校は、先生と繋がりがあるという「普天間第二小学校」に連絡を取り、ビデオレターと文通をした。

 この頃から、先生は沖縄に興味があったのかもしれない。運動会では、沖縄の伝統芸能「エイサー」を踊った。当時流行っていたブラックビスケッツの「タイミング」と、沖縄の音楽「走れサンダー」の2曲で踊った。踊りに使う太鼓も、図工の時間に手作りした。ポケモンのまねをしたオリジナルキャラを作ることがクラスで流行っていて、私も太鼓に、オリジナルキャラの絵を描いて楽しかったのを覚えている。

 そして、国語の授業では演劇もおこなった。4年生の最後の授業参観は、クラスで3グループに分かれてそれぞれの作品を上演した。私たちのグループはなかなか脚本が完成せず、放課後、先生と居残って練習をしたっけ。本番を迎えたとき「あぁ、もう放課後にみんなで練習して、こうやって演じることはないんだな」と感傷的な気分になったりもした。

 

 そんなふうにして、ようやく代々木生活にもなじんできた中、

 

 …………

 

 ────私の転校が決まった。

 

 転勤族だったから、代々木小に長くいられないことは最初からわかっていた。むしろ、5年生になったら運動会で「1000メートル走」をしなければいけないのがイヤだったので、その前に転校できることは嬉しかった。それに、代々木小は小さな学校だったから、卒業するのはどうせならもっと大きな小学校がいい、と思っていた。

 この頃の私は地図帳が大好きだった。長崎に引っ越すことが決まってからは、父がくれた資料集を眺めながら、どんなところなんだろう、と胸を弾ませていた。転校先の学校ではこれまでの引っ込み思案な私を知る人はいないから、Aちゃんみたいに振る舞えたらいいな、と思っていた。

 

 そして────1999年3月。

 年度末も近づき、私の引っ越しの日も迫ってきたある日。湯本先生から電話があった。クラスメート何人かとの、食事会のお誘いだった。

 じつは先生は、Aちゃんが不登校になってから、彼女のことを考えてくれているクラスメートを誘い、休みの日に時々ランチ会を行っていたようだった。私のことは今回「転校が決まって、最後になるだろうから」ということで誘ったとのこと。そのとき私は、かすかにショックと罪悪感を覚えた。私はずっと自分のことで精いっぱいだったけど、Aちゃんのことを気にかけていた同級生が、こんなにたくさんいたなんて。

 

 その後、クラスでは、私(と、同じタイミングで大阪に転校が決まった男子)のお別れ会も開かれた。みんな、いろんなプレゼントを持ってきてくれた。そんなこと、私たちには一切知らされていなかったからすごく驚いたけど、すごくうれしかった。

 また、「来年度はもう担任を外れるだろうから」ということで、湯本先生は、生徒ひとりひとりの似顔絵を描いた色紙を終業式の日に配っていた。似顔絵が妙にリアルで、みんなで見せ合ってはワイワイ騒いだっけ。先生は絵も得意だった。学級通信には、よくイラストが添えてあった。

 それらの色紙や思い出を抱えながら、私は代々木小学校を去った。私は3月に10歳になったばかりだった。

 

 1996年9月から、2年半通った小学校。ありがとう。とっても思い出深い学校だったよ。ありがとう、代々木のまち。

 

▲私が住んでいたこの団地は2011年に廃墟になりました。

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その後

 それからどれくらいの月日が経っただろうか。湯本先生からは、2004年頃にうちの家族あてに連絡が一度あったらしい。現在は代々木小の6年生(私の妹と同学年)の担任をしており、卒業にあたり、かつてクラスメートだった妹からもコメントをもらいたいとのことだったそうだ。

 2007年に私は大学生になり、mixiを通じて昔の同級生何人かとも連絡を取った。2008年、Kくんとも再会できた。モルモットを可愛がっていたKくんは動物関係の専門学校に進学したという。

 そういえばあのモルモットは、私が代々木に転校してくる前に、入れ違いで引っ越した女の子がクラスに持ってきたコだったと聞いた。そのモルモットが、別の転校生の男の子に可愛がってもらえ、生を全うできた。不思議な縁だな、と思った。

 かつてKくんをいじめていた同級生からも、mixi経由でKくんに連絡があり、「あのときはごめん」と謝ってくれたりもしたそうだ。

 

 その後もSNSでKくんとやりとりすることはあった。2014年のある日、「湯本先生、Facebookにいたよ」と教えてもらえた。

 アクセスしてみると、先生は教員のあり方に疑問を抱き、2006年・51歳のときに自主退職したそうだ。その後は私塾を開いたり、アマチュアドキュメンタリー映画の監督として活動しているらしい。

 その私塾の名前は────「じゃがいもじゅく」。

「!」

 じゃがいも塾、って、小4のとき、Kくんたちを集めて行っていた学習会の名前だ!

 そっか、あのときの学習会が、こんなカタチで続いたんだ……。

 そういえば、Kくんのmixiネームも「ポテトK」のような名前だったっけ。そっか、あのときのことがこんなふうに息づいていたんだ……。

 

 ちなみに、私が社会人になり名古屋で知り合った友人が「じゃがいもじゅく」について取材をしていたことがわかったり、私が卒業した佐賀の中学の同級生が、代々木小時代の同級生と友人同士だったことがわかったり、世間の狭さものちに判明……!

2019年1月 飯田橋

 そしてとうとう、お会いできる機会がやってきた。Facebookでイベント招待をいただいたのだ。ドキュメンタリー映画の上映会だ。

  とうとうお会いできるんだ、と思うと、緊張がピークに高まった。会場の最寄り駅にて、あのときの気持ちを思い出そう、と思いブラックビスケッツの「タイミング」をYoutubeで再生してみたら、運動会で踊った懐かしさに震えが止まらなくなった。

 

 あぁ、20年は長かった────。

 転校先の学校に馴染めなかった私は、何度「代々木に帰りたい」って思ったか。湯本先生からの手紙は何度読み返しただろうか。小3、4年の当時はもちろん、その後の人生で孤独感に苛まれたときも、代々木小の仲間や思い出にどれほど精神的に助けられていただろうか。私、あのころに比べると積極性が身に着いたよ! 詩のコンクールで賞もとったよ!! その後、子どもの教育、平和学習、演劇関係をきっかけにあちこちで友達ができたよ!!!

 直接的にも、間接的にも、代々木生活はどれほど私に影響を与えたことだろうか。

 その中心となった湯本先生に、とうとう20年ぶりに会える。

 

 ドキュメンタリーは、まず、選挙のシーンが私にとっては印象的だった。だれの選挙であろうと、当落の一喜一憂には胸がキュッとなる。また、沖縄の天候が気になった。曇天、雨天のシーンが多い。

 そして───約1年前に起こった、普天間第二小学校に米軍ヘリの窓が落下した事故。私は覚えていたよ。普天間第二小学校は、小4のときの地域学習でビデオレターのやり取りをした学校だ、って。

  上映会と対談が終わる。「湯本さん、」と次々にいろんなひとが、先生に話しかける。

 そうか、ほかのひとからすると「湯本先生」ではないんだな……。あのころの「ゆもちゃん」じゃ、ないんだな……。

 

「湯本先生っ!」 

  私、20年前に代々木小学校でお世話になった、……

 イベント終了後、ほかのお客さんが去るのを待ってから挨拶をした。

 小学校での演劇で鍛えたような、通る声は出せたかな、私。

 

 先生は、20年前よりも痩せていた。声も、20年前のような大きさや滑舌ではなかった。髪も白髪が増えている。20年が経つというのはそういうことなんだろう。けれど、表情には面影があった。

 

 ───よく来てくれたね。ありがとう。

 握手をし、言葉を交わす。20年ぶりだ。

 ───どのクラスだったっけ。誰がいたっけ。

 ───ほら、Aちゃんとか、Kくんとかがいたクラスです。

 ───あぁ、モルモット飼ってたクラスか。Kくんか、会いたいなぁ。

 ───Kくんも先生に会いたがってましたよ。「Facebookを見つけた瞬間、泣きそうになった。湯本先生には本当に感謝しきれないほど大好きだった。会ってお礼を言いたい」って言ってましたよ。私もです。これまであちこちの学校に行きましたが、もっとも人生に影響を与えた先生です───。

 

 ありがたいことに、私は上映会スタッフの打ち上げにもご一緒させていただくことができた。

 

 20年前、私たちの担任をしていた頃は、先生も思い悩んでいた時期でもあったという。そうだったのか。あの頃は私にとっては楽しい日々だったけど、先生にとっては、悩んでいた日々だったのか……。

 

 ───もっと若いときから映画を撮れば良かった。もう自分はあと10~20年でこの世を去るだろうけど、これからの子どもたちが生きる世界は、平和であってほしい。

 ……そっか、教員を辞めても、子どもが好きなことは昔と変わらないんだな。その点は嬉しかった。

「教員」から「映画監督」への転身か。まるで、ポケモン的な「進化」みたいだなぁ。もしかしたらこちらが本来の姿で、先生が「教員」だったのは、ある種の序章だったのかもしれないな。授業での演劇とか、ビデオレターとか、このための伏線だったのかもしれない。

 ……私は?

 この20年間で、どう成長できたかな。

 

「実は6年前にこのあたりに住んでいたことがある。そのとき、友人たちとUstream番組を作っていた。そのときに知り合った人には、映画や映像関係の仕事をしているひともいる」という話をしたら、興味をもっていただけて嬉しかった。


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▲上映会主催の「ビデオアクト」の皆さんと。

 

 懐かしく楽しい時間はあっという間だった。飯田橋駅で解散になった。

 20年か──────

 代々木小を転校した私は、長崎、佐賀、京都、神楽坂、名古屋、とあちこちに住んだ。それぞれの地ではさまざまなことがあった。まるで、同一人物の人生を生きている気がしないくらい、バラエティに富んだ20年だった。本来は別々のひとが送るべきだった人生を、私の身体を使いまわしているような、そんな気すらしていた。

 でも───代々木時代に、私の原点はきちんと存在していて、私はひとりの人間だったんだな、ということを、どこかで受け入れられるようになった感じもあった。

 

 20年か。これからの20年は、長いのか短いのかはわからない。でも、1999年からの20年は、とてつもなく長かった。長かった。長かった。

 

 ふと、代々木小学校の校歌を聴いてみたくなった。代々木小は2015年に廃校になっており、Youtubeなどにも歌は上がっていない。

 記憶を頼りに、心の中で、私はそっと口ずさむ。

 

♪ 代々木の森から 吹く朝風は───

 

 20年前のこと。ずっと忘れないまま、これからも強く生きていこう。

 

※プライバシー配慮のため、本筋と関係のない範囲でフェイクを入れている部分があるかもしれません。出てくる名前も実際のイニシャルとは限りません。

  

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学校を辞めます―51歳・ある教員の選択

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 ▲湯本先生の著書。いわゆる退職エントリ的な。

 

風の教室 (中公文庫)

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 ▲この小説を読んだとき、ここに出てくる先生のキャラクターが、ちょっと湯本先生に似ているなと思いました。