広告代理店に勤める友人が昨日、こんな投稿をしていました。
センセーショナルなアプリのリリースかと思いきや、広告会社の宣伝……というイギリスのクリエイティブ。なるほど、これは面白い。
コメントにも、 「素晴らしい」という肯定的な意見がある反面、「こういうことやるエージェンシーに頼みたいって思うかな」という否定的な意見も見受けられました。
「この、賛否ある感じって何かに似てるな……」と思ったのですが、これって、数年前に流行った、「ドッキリプロモーション」に似ている気がするんですよね。
(※もっとも、本当に数年前に流行っていたかはよくわかりません。私が広告関係の会社に就職したのが4年前なので、それからしばらくは広告業界の情報を目にしやすかっただけの可能性もあります)
そして、このことについて以前、ちょっとしたコラムのようなものを書いてみたことがあったのを思い出しました。
以下、2014年に書いたコラムの転載です。
ドッキリプロモーションと暴力について
■人間の印象に残るのは “愛”より“恐怖“!?科学的にも有効なドッキリプロモーションまとめ
http://www.movie-times.tv/purpose/buzz/4164/
この記事によると、「ドッキリプロモーション」が欧米では増えてきているという。増えている理由としては、「恐怖は記憶とリンクするアドレナリンを放出する」という科学的な理由があるから、ということらしい。
しかし、日本ではあまりドッキリプロモーションは見かけない(少なくとも私の観測範囲では見かけたことがない)。その理由はなぜなのだろうか。
記事の中では、「過激な内容に賛否両論あるせいか」と書かれているが、実際、この「過激な内容だから」という点は、根拠として大きいのではないかと私は考えている。
たとえば、官邸前などで行われるようなデモなども、日本では受け入れられにくいと言われている。また、今年話題になった、アイスバスケットチャレンジなども、日本では賛否両論である(もっとも、こちらに関しては日本に限ったことでもないと思うが)。
もしかしたら、和を重んじる(と言われている)日本では、「過激なパフォーマンス」は好まれないのかもしれない。デモ批判の文脈でも、そこでの主張内容に関わらず「うるさくて邪魔」、「暴徒化しそうなものは行うべきでない」などと言われることがある。
私の個人的な好みで言っても、「ドッキリプロモーション」は好きではない。私は「驚かされる」ことがさまざまな意味で苦手だ。「驚かせる」行為は、受け手の感受性によっては一種の暴力にもなりうる、きわめて危ういものだと思っている。自分がされることはもちろん、他者が、そのように「暴力を振るわれている」光景を見ることも苦手だ。
また、デモに関しても、その行為自体を否定するつもりはないが、ネガティブな経験があるため個人的には好きではない。(しかし、デモをする人の権利はきちんと守られるべきだと思っている)
デモ、あるいは選挙カーや演説のような街頭での活動に対しては、「アピールすることによってその問題や候補者のことを知る人もいるだろうけれど、それらの活動を不快に思ってかえってネガティブなイメージを持つ人もいる」というニュアンスのことを主張する人もいる。また、このような狭義の政治活動に限らず、テレビCMやインターネット広告など、なんらかの広告に関しても、「あのCM、放送されすぎて逆に買いたくなくなってくる」などと言う人が存在する。
なお、私は、だからといって広告や政治活動が無益だとは決して思わない。「アピールされることによってそれを“知る”ことはあるが、アピールされることでそれを“知らなくなる”ことはありえない」からだ。広告にしても政治活動にしても、「知ってもらう」ことによって、興味や問題意識を持ってもらえたり、好きになってもらえたり、あるいは嫌いになってしまったりする。好きになることも嫌いになることも、知らなければありえない。「知ってもらう」ことにまず重きを置くのは戦略として有益だろう。
基本的には、デモも選挙カーも街頭演説も、「表現の自由」の権利にのっとって、ルールの範囲内で自由に行えばいいと思っている。それらの行為に迷惑している人の「権利」との擦り合わせを行い、妥協点を見つける作業は、必要に応じて行うことが望ましいとは思っているが。
しかし、「ドッキリプロモーション」のような、受け手の感受性によって「暴力」となりうる表現は、インパクトを残しブランディングとして有効な場合も多々あるとは思うが、かなりリスクも大きい行為なのではないかと考えている。
次のような事例もあるようだ。
■母親から赤ちゃんを盗む!?海外で賛否両論のドッキリプロモーションまとめ
http://entermeus.com/46352/
■面接中に隕石が降ってきたら!? “画質の良さ”を訴求する薄型TVのPR
http://adgang.jp/2013/09/39307.html
「ドッキリだと明かされてからも表情は引きつったまま」「激怒して帰ってしまった」など、ドッキリの対象にされた人の反応はさまざまのようだ。
「CMでドッキリの撮影が行われること」をあらかじめ承知の上で撮影されたものならともかく、おそらく、これはそのような状況下で行われたものではないだろう。事情を知らない人物に恐怖感を与え、何も知らないで怯える姿を楽しむ(消費する)この行為は、「暴力」となってしまっていると言っても良いのではないだろうか。
プロモーションとしての面から言っても、あまりいい宣伝方法とは言えないのではないかと考えている。たとえ一時的にインパクトを残せるとしても、「暴力」として受け止められてしまったら、企業や団体のイメージも悪化する可能性がある。これは、一種の「炎上商法」とも言えるのではないだろうか。
いずれにせよ、他人を陥れることによって自社の宣伝を試みるという行為は、私の美学からすれば、とても「下品」な商法に思えてしまう。
もっとも、文化圏によっては、日常的に「ドッキリ」を行って楽しむところがあるのかもしれない。そのような場合ならこの限りではないかもしれないが……。
今の私の意見も、この頃とあまり変わりはありません。(しかし、「(と言われている)」「(観測範囲では)」とか、予防線が多いことが少々気になりますね。笑)
ちなみにこのコラム、じつは私、なんのために書いたのかが今ひとつ思い出せないんです。仕事関係というより、自分で同人誌を作りたくて書いた原稿の一つだったと思います。日本マーケティング協会の機関誌「マーケティングホライズン」のようなものを作ってみたいなと憧れていました。
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今回の「Facezam」リリースに関して言えば、プロモーションの賛否についてより、違うことが私は気になりました。
これ、ヤフトピにも取り上げられたようなのですが、そこでのコメントが見事に的外れなものばかり。
「もうすでにありそうだよね」「技術的には可能でしょ」「自分で上げてる写真にプライバシー云々って言われても」などなど……。
(ヤフーニュースの記事って、消えてしまうのが早いので、リンクが切れていたらごめんなさい)
昨年、アメリカ大統領選挙やキュレーションメディアの問題で、「嘘ニュース」「虚構メディア」についてだいぶ話題になったにもかかわらず、ヤフトピのコメント欄では、この「虚構アプリ」そのものについてのコメントで盛り上がっていたことが印象的でした。
プロモーションの手段とか、そっちに関してはなんとも思わないのかな……?
(まぁ、この施策は日本に向けたものではないでしょうし、このプロモーションが成功と言えるかどうかの判断はしづらいから、そこに関しては何も言えない……ということもあるかもしれませんが)
先日、PR TIMESが主催の「スタートアップPR基礎セミナー」に参加し、効果的なプレスリリースの構成や書き方、タイミングなどの話を伺ったばかりということもあり、マーケティングやPRのあり方、届き方について考えさせられた出来事でした。