アイドルグループ・乃木坂46のメンバーのInstagram投稿が、エイプリルフールに物議を醸していた。
親交が深いらしい、元メンバーの女性との仲の良さそうなツーショット写真だ。挙式をした旨の投稿と「エイプリルフール」のハッシュタグがついている。
そして、この写真のスクリーンショットに対して、下記のような批判をしているツイートが見受けられた。こちらが炎上の発端だったようだ。
乃木坂46の人らしいですが酷いですね。
— Rika🏠レズビアンの不動産屋さん (@L_rikas) 2022年4月1日
エイプリルフールの「ネタ」として、注目を集めるためだけに、マジョリティ側に利用される形だけの同性愛。
あまりにも酷いクィアベイティングで、めまいがする。 pic.twitter.com/MH31Wa4mYE
「クィアベイティング」は「クィア(ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダー、異性装者など)」を「ベイティング(釣る)」手法のことで、「性的指向の曖昧さなどをほのめかして世間の注目を集める、マーケティングとしてマイノリティを利用する行為」として批判的に使われる言葉だ。
この批判に対して私は少々違和感を抱き、はてなブックマークで共有したところ、賛否両論さまざまな意見が寄せられた。
この、アイドルの投稿に批判的な意見としては、
「同性愛者への偏見が根強い中でエイプリルフールのネタにするのは配慮不足」
「『現実にはあり得ないこと』として同性婚を扱うのは失礼」
「同性婚の法整備を巡って、裁判だって行われているというのに」
「当事者が『これは不快だ』と声を上げないと、いつまでも傷つけられるマイノリティのままだ」
「非当事者からしたら『このくらいで』って言えるのかもしれないけど、小さなことでも積み重なると痛いんだよ」
「そもそもエイプリルフールの結婚ネタって、何が面白いのか理解できない」
といった意見が目立ち、
肯定的な意見としては、
「この二人は元々『夫婦みたい』って言われるほど仲がいいことはファンの間では知られたことなんだよ」
「この2人だって同性愛の当事者かもしれないのに、ネタで利用してるだけだと決めつけるのは不適切では」
「『結婚しました』ネタはエイプリルフールの定番で、同性同士だと不適切、となるのはおかしいのでは?」
「そもそもこの投稿では同性婚したとは言ってない。挙式をするだけなら今でも同性同士でもできる」
「同性婚ができないのはこの人たちのせいじゃない。戦う相手が違うのでは」
「これが不適切となってしまうと、流石に表現の幅が大きく狭まるのでは」
といった意見が目立っていた。
私はこの件に関しては、どちらかというと肯定的な立場の意見だ。
「不愉快な気分になった」ことに対して「この程度で怒るなんておかしい」とはもちろん思わないし、声を上げることも尊重したい。
ただ、意図を決めつけて「あまりにもひどい」と憤る姿勢には疑問を覚えた。
「ハンロンの剃刀」では
この炎上と時期も近い3月末、某アニメ監督が思わせぶりな投稿をしたことにも「クィアベイティングなのでは」と批判が起こり、一部で話題になっていた。
私の友人がこの件に対して「『ハンロンの剃刀』の寓話を思い起こさせられる。愚かさ(無知、無能、配慮不足)で説明できることに悪意や意図を見出すのは、相応の根拠が必要になるのでは」という旨のことを投稿していたが、これはアイドルのエイプリルフール炎上のほうにも言えるのではないかと思った。
ただ、そう思う一方で、差別に関しては「悪意がないからこそ厄介」という側面があることも否定できない。「悪意の有無は問題ではない」という意見も、それはもっともだと思う。
揶揄を見出すのは厳しいのでは
今回、批判的な意見の中には「ネタにするのはいかがなものか」「バラエティでのホモいじり等も、ようやく批判されるようになってきたというのに」というものが見受けられた。
ここでの「ネタにするなんて」という批判の「ネタ」という言葉は、おそらく「同性愛者への揶揄」を見出しているのだとは思うが、あの投稿から「揶揄」を見出すのは厳しいのではないだろうか。
たとえば、かつてバラエティー番組で芸人が演じたキャラクター「保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)」は、衣装やメイクやネーミングなどのキャラ造形からして「男性同性愛者を揶揄している」と捉えられるのは多くの人が認めるところだろう。
また、2014年に某航空会社のCMで、日本人の芸人が「金髪のカツラ」「おもちゃのつけ鼻」をして「日本人から見て魅力的とされる、白人のステレオタイプの姿」を演じたことも「差別的だ」と批判を浴びたこともあった。
このCMでは、二枚目俳優との対比というカタチで芸人が起用されていたこともあり、金髪に高い鼻を持つ当事者が「バカにされた」と感じるのも無理はないと思う。
日本では憧れる人が多い「高い鼻」や「金髪」だが、「高い鼻」をコンプレックスに思う人もおり、「金髪」に至っては「頭が悪い」という偏見が残る文化圏もある。そもそも「他者の身体的な特徴を誇張して表現すること」は、「揶揄の意図がある、差別的な行為」とする考え方は、近年は広まってきていると言えるのではないだろうか。
では、今回のアイドルの投稿はどうだろうか。
たとえば、どぎついメイクやカツラ、クネクネした面白おかしい挙動をした上で「挙式をしました」という「嘘投稿」をしていたら、「同性愛者を馬鹿にしている」と捉えられるのも無理ないとは思う。
ただ今回は、メイクも衣装も、彼女たちの普段の姿と大幅に異なるようなものでもなく、安直な「コスプレ」感も見受けられず、「同性愛者への揶揄」と捉えられるようなものではないように思う。
モヤッとする、傷つく当事者の感情は尊重されるべきと思うが、「揶揄」を読み取って批判する行為には違和感を覚えた。
友情婚した同性ペアもいる
「同性婚ができない中で、この投稿は不適切だ」
「法律婚はできないけど、挙式するのは同性同士でもできるよ」
「逆に同性愛者は”挙式しか”できないんだよ」
「そもそも”同性婚した”なんてどこにも書いてない。二人で”挙式をした”ことを”エイプリルフール”と言ってる」
「”挙式した”と”同性婚した”は違う、という言い訳は厳しい」
といったコメントの応酬も見受けられた。
これらのやり取りで思い出したのは、以前ネットで見かけた、「同性同士でパートナーシップ制度を利用し挙式もしたが、同性愛者ではない女性ペア」のことだ。
https://shonan.keizai.biz/headline/2706/
↑元記事は埋め込み形式でのリンクが貼れなかったので……。
この記事の女性二人は、長年一緒に暮らしており、同性パートナーシップ制度を利用していて、挙式もしているが、同性愛者というわけではないという。いわゆる「友情婚」と呼ばれるものの一つかもしれない。
今回炎上したアイドルたちがどのような関係性なのかは分からないが、「多様な家族のカタチ」も話題となる昨今、「同性婚をする二人だからといって、恋愛感情としての結びつきとは必ずしも言えないのではないか」ということを思った。
そもそも同性ペアでなくても、ヘテロの夫婦でも「恋人やセフレにしたい相手と、結婚したい相手は違う」「性的に魅力を感じるタイプと、生涯を共にしたい相手は違う」ということはさほど珍しい話でもない。
また、昨今は挙式をしない夫婦も増えている。
なので、「同性愛者」と「結婚」と「挙式」を必ずしもセットで考えなくても良いのでは、ひとまとめにせず切り分けて考えてみても良いのではないか……ということを、いくつかの批判を見ながら思った。
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「同性愛」以外のマイノリティだったら?
批判的な意見の中には「同性婚の実現を求めて裁判だって行われているんだけど」というものもあった。
個人的には、「裁判をするくらい深刻に考えている当事者がいること」と「投稿への批判の妥当性」は必ずしも結びつくものでもないと思うが、その視点はひとまず置いておくとして、「では、同性愛以外の性的マイノリティを想起させる内容だったらどうだろうか」ということを考えてみた。
たとえば、同じ「性的マイノリティ」といっても、複数人と合意の上でパートナーシップを築く「ポリアモリー(複数愛)」や、動物を性愛のパートナーとする「ズーフィリア(動物性愛)」のあいだでは、少なくとも同性愛者に比べると婚姻の法整備を求める動きは少ないと言えるのではないだろうか。(書物などを読む限りの印象だと、当事者の絶対数が少ないためムーブメントが起こらないというより、そもそも婚姻制度による包摂の必要を感じていない人が多いように思えた)
もし今回、同性ペアで挙式をしたという投稿ではなく「3人で挙式をした」ことや「一緒に暮らす犬と挙式をした」といった投稿をしていた場合も、今回と同様の批判はあり得ただろうか。
複婚や動物婚を求める裁判は少なくとも日本では行われていないと思うが、真剣に法整備を求めたい当事者もいないわけではないだろう。「彼らの気持ちを考慮すると、複婚や動物婚を連想させる投稿も不適切だ」としてしまうと、そもそも大幅に表現の幅が狭まってしまうのではないだろうか。
この危惧は、性愛に関することだけではない。たとえば「ペットショップで猫を買いました」という投稿をエイプリルフールとして行った場合でも、「生き物の生体販売に関しては批判も多く、改善に向けて真剣に活動している人も多い中、猫を買ったという投稿をネタにするのは失礼だ」という批判が可能となる。批判自体はもちろん自由ではあり、この批判自体の理路も妥当だとは思うが、だからといって直ちに「不適切」となされることには違和感が強い。
そもそも、今回の炎上の発端となったのはTwitterによる批判的な意見の拡散ではあったものの、元の投稿はInstagramだ。Instagramの基本的な仕様としては、サービス内での拡散機能はない。広告などとは違い、いわば「その投稿を見たい人に向けて投稿されている」性質が強いものと言えるだろう。
「真剣に取り組む当事者への配慮」ばかりを強くし、投稿を自粛するムーブメントを作ったところで、その問題の改善には繋がらないのではないだろうか。
同性婚を求めない/批判的な当事者もいる
また、今回散見された意見では「同性愛の当事者は、法律婚できないことを深刻に悩んでいる」といったものばかりで、「同性愛者の中でも、法整備を求めない当事者もいる」「同性婚を巡ってはさまざまな議論がある」といったことが置き去りにされていたことが気になった。
たとえば、2018年に出版された『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』では、下記のようなくだりがあった。
また、2019年に出版された『ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた――あなたがあなたらしくいられるための29問』でも、下記のような記述がある。
日本では同性同士の法律婚が認められていないことに関して、当事者の間でも多様な考えがあるにもかかわらず、「同性婚を求める当事者が多いんだから、失礼だ」という意見を展開することは、いささか乱暴なことにも思えた。
そもそも、結婚もパートナーシップのあり方も、細かく考えていけば人の数だけ、価値観はあるものだと思う。
もちろん、属性によって一定の傾向は存在するし、制度を作る際には一定の社会的合意を考慮する必要はあるが、「どのようなパートナーと生きたいか」「どのような生き方をしている/していないように見せたいか」という「個人的なこと」に関して、他者が権利運動や属性の文化を持ち出して批判することに違和感を覚えた。
そもそも「エイプリルフール」が不快?
今回の意見をいろいろ見ていて感じたのは、「そもそも、エイプリルフールの文化が好きではない」という人も一定数いるようだ。
SNSによっては特定のハッシュタグやキーワードが含まれる投稿をミュートすることも可能であり、今回のアイドルの投稿にも「エイプリルフール」のタグがついていた。エイプリルフールに関しては、比較的「避けやすい」ものではないかと思う。
何らかのメディアに投稿する際に「誰かをモヤッとさせてしまうかも」という躊躇いや配慮はそれはそれで必要なことではあると思うが、「自分はこういった冗談は好きではないな」と思うものに対して、上手に折り合いをつけたり、エンカウントしないための技術というものも今後は求められていくのではないか……ということも思った、今回の炎上だった。
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