──12月3日。とうとうこの日がやってきた。
ベンジャミンの、初の著書の発売日だ。
彼は今でこそはてなブログで有名になり、私もはてなブックマークでそこそこ知られるようになったようだが、私たちの出会いは2008年、大学の文芸サークルだった。
彼は学生時代から小説が飛び抜けて上手かったので、小説ではなく評論の本で商業出版デビューというのは少々意外な気はしたが、ベンジャミンのブログ「動物的道徳日記」も、外部メディアの記事もどれもSNSでたびたび話題になっていたので、評論でのデビューというのも不思議ではなかった。
書籍の発売のタイミングで発表された、こちらの記事も読んでみた。
私がすでにブックマークのコメントで書いていることは割愛するが、書ききれなかったことや、コメント欄を読んで思ったことなど書いてみたいと思う。(長くなったので複数回に分けます)
まず興味深いと思ったのは、4ページ目のこのくだりだ。
功利主義に基づく規範論はじつにリベラルなものであり、左翼的で反差別的なものとなる。たとえば、同じ金額を寄付することで「一人の同国人」の生命を救える団体と「二人の外国人」の生命を救える団体があるなら、後者の団体に寄付するべきだということになる。
さらに、同じ金額で「100匹のネコ」を救える団体もあるなら、そちらのほうに寄付するべきかもしれない。相手の国籍や人種や性別によって道徳的に配慮するかしないかを変えるのが間違っているのと同じように、相手の生物種によって道徳的に配慮するかしないかを変えるのも間違っているからだ。
似たことは私も以前からたびたび考えており、SDGsが叫ばれるようになった昨今、より一層考えるようになったテーマでもあったのでこの文章は目を惹いた。
昨今、「人権」について声高に主張する人々が目立ってきており、それはとても喜ばしい風潮だと思ってはいるが、その一方で「ヒトではないものの存在の権利」については蔑ろにされたり、一段と低く見られがちであるかのような状況が気になっていた。
記事では動物の例が挙げられているが、動物に限らず、植物や自然環境、そのほか法律上は「人」とは見做されていない胎児や、まだ見ぬこれから生まれてくる人たち、すでにこの世を去った人たちなどの存在についても、もっと考えられても良いのでは……という思いがずっとある。
もちろん、我々は生きているヒトである以上、生きているヒトの権利を優先して考えがちになることは致し方ないと思う。ヒトの権利と、ヒト以外の権利が衝突した場合に、ヒトの権利を優先する考えが支持を集めやすいのはなんらおかしなことではないとは、思う。
でも、あまりにもその考えが強い意見ばかり見ているとそれはそれで疑問が湧いてくる。
生きているヒトがそんなに偉いの? 生きているヒトが、ほかの存在よりも優先されることってそんなに自明なことなんですかね? ヒトがなまじ言葉を話せるからって傲慢になってないですかね? と時々、自分にも他人にも大声で呼びかけたくなる。
「そもそも生きているヒト同士でもいろんな権利が衝突している中、それ以外の存在のことまで考えてられないよ!」と言いたくなる現状もわかる。でも、そんな中だからこそ時々は、ふだんは自明のものと思いがちなことについて、一度立ち止まってみたいな、と思う。