これからも君と話をしよう

一度はここから離れたけれど、やっぱりいろんな話がしたい。

28歳、意識の高い挫折の履歴書

※この記事は、 サークルクラッシュ同好会 Advent Calendar 2017の17日目の記事として書かれています。サークルクラッシュ同好会のブログはこちら

 

 私が「サークルクラッシュ(クラッシャー)」という単語を知ったのは2013年で、「オタサーの姫」という単語を知ったのが2014年。

 その頃には私はすでに大学を卒業していたのだが、このふたつの単語を知ったとき、「私の学生時代にこの単語が広まっていなくてよかった……」と思ったことを覚えている。

 この記事では、幼少期からいじめられていてスクールカーストが低かった私が、オタサーの姫として振る舞うことによりどのようにカーストの逆転を試みたかについて書こうと思

 

……ってたけど、やめたやめた!!

 

 みんなもう飽きたでしょう? 食傷気味でしょう? 性愛絡みのこじらせ話。

 まー、私の知人だったらそういうゴシップもちょっとは面白いかもしれないけど、それでもどうせ全体公開のブログで書けることなんてたかが知れてるし。

 このアドベントカレンダーのテーマは「こじらせ自分語り」

サークルクラッシュ同好会」という会の性質上、このアドベントカレンダーにも「性愛についてのこじらせ」を中心としたエピソードが多く集まっていますが、私はちょっと趣向を変えようと思います。

 

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 人生でifの話をしたくなることはいろいろありますが。

 私がいちばん強く思うのは、性愛絡みの話を除くと、「今から20年前、小中学生のうちにマーケター意識を持っておきたかったな」ということ。

 昨今、さまざまな分野で活躍するひとたちの様子がタイムラインに流れてきます。

「すごいなぁ、素敵だな」と思う反面、「私もあのとき頑張っていたらそっち側に行けたかもしれない、過去の自分が悔しい」と思うこともしばしば。

 私は昔から、あれこれいろんなものを立ち上げては撤退、を繰り返してきた人生を送っていました。

 以下、色を付けた部分の文章は、ざーっと流し読みしてください。熱量だけ感じ取っていただければ結構ですので。

代々木時代(1996〜1999)

 小4になったばかりの頃くらいだったと思います。この頃は代々木に住んでいたのですが、近所に住んでいた当時小1の女の子と一緒に「ひみつきち」を作ろうとしていました。

 基地を作りたかったというよりは、今でいうところの「サードプレイス、コミュニティ、居場所づくり」的なものを目指していました。

「ひみつきちを作ったあと、そこで『えんげきクラブ』『プールクラブ』とかを作って、みんなそれぞれが得意なことを教え合おう!」みたいなノリであれこれ計画を考えていました。(「プールクラブ」は、家庭用のビニールプールを使うか区民プールまで通うかで、小1の子とは意見が分かれた覚えがあります)

 ちなみに私がそこでいちばんやりたかったのは、キャラクターデザインについて(当時はそんな言葉を知らなかったので「モンスター作り」とか言ってましたが)。たまごっちやポケモンのパロディのようなキャラを作るのが当時流行っていたので、みんなが作ったオリジナルキャラクターを持ち寄ることができたら、それぞれのキャラの世界観がどんどん広がっていって楽しいんじゃないかな、と思っていました。

 この頃の将来の夢は、漫画家かゲームデザイナー。インターネット的なものに初めて触れたのもこの頃で、これなら全国から仲間を集めることができるかも! と、興奮したのも覚えています。

 結局、ひみつきちを作れそうな場所が見つけられなかったことや、仲間があまり集められなかったこと、そして何より、私が5年生になるタイミングで長崎に引っ越すことになったので、この「ひみつきち計画」はそれを以って終了しました。

 

 ちなみにこの頃、私はなかなか同級生とは馴染めず1年生の子とばかり遊んでいましたが、クラスそのものは割と良かったことに後になってから気づきます。

 担任教師が国語に力を入れていた人だったこともあり、当時のクラスでは「詩を書くこと」が日常の文化として根付いていました。学級通信とは別に、みんなが書いた詩を載せたフリーペーパーのようなものも作られおり、それを見た音楽教師が詩に曲をつけて、音楽の授業で歌ったこともあります。演劇的なこともよく行っていて、授業参観にオリジナルの演劇が行なわれたこともあります。また、この担任教師はいじめや不登校、友達関係の悩みにはとても真摯に向き合っていたひとで、とても頼もしい存在でした。長崎に引っ越してから、いかに代々木のあのクラスは恵まれていたかを再確認します。

 そして、詩や演劇、いじめ・不登校支援などは今後の私の人生に大きく影響します。

長崎時代(1999〜2003)

 長崎の学校に馴染めないまま私は小6になります。ある日、朝日小学生新聞の投稿欄および、そこの文通友達募集コーナーで交流した文通相手をきっかけに「ペーパー(フリーペーパー)作り」に興味を持つように。そこで同級生とペーパーを作る話、売る話、通販をやる話などが出ましたが、こじれることが多く計画は自然消滅。秋ごろ、それらの友人関係のトラブルを発端にいじめや不登校について本格的に興味を持ち出し、新聞記事をスクラップしたり、いじめ問題についてのホームページにもよく出入りするようになりました。

 やがて、いじめ関係のホームページを運営していた当時25歳の東京の社会人男性や、そこでやりとりした当時50代くらいの女性とも、掲示板やメールで交流するようになり、私がそのホームページのイメージキャラクターやフリーペーパーを作ってみたこともあります。学校に「貼らせてください」と頼んだら、校長先生は許可してくださったものの、担任教師からは「どこの誰が運営しているかわからないものを掲示するわけにはいきません」と断られてしまいました。まぁ、もっともだと思います。

 親に協力を仰ぐのは憚られました。2000年当時、長崎住みの小6女児だった私が「ネットで知り合った、会ったことない東京の大人の男の人と交流して、いじめ防止団体を運営」なんて、納得してもらえる説明ができる自信もなかったので。

 ちなみにその頃、「いじめから友達を守る会」という団体を立ち上げた長野の高校生のことを朝日小学生新聞で知り、そこの掲示板にもよくカキコしていました。(私ももう少し大きくなったらその団体に入れてもらおうと思っていましたが、私が中学生になってしばらく経った頃から更新されなくなったような覚えがあります)

 

 また、「子ども110番」のホームページにもよく出入りしていましたね。そこにもオリジナルキャラを描いたイラストを送ってみたら、しばらく載せていただきました。

 その頃、朝日小学生新聞には「自分でホームページを作ってみたよ」という投稿が投書欄でちらほら見受けられるようになり、私も独自のサイトを持ちたいと思い始めました。HTMLなどを勉強したり、ホームページ作りをはじめて試みたのもこの頃です。結局あまり納得いくものは作れませんでしたし、コミュニティとしての運営もうまくいきませんでした。コンテンツの魅力も広報の下手さも両方あったと思いますね。まぁ、今から20年近く前の田舎の女児にできることには限界がありました。

 ちなみに私は、この頃から漫画家ではなく小説家になりたいと思いはじめます。いじめをテーマにした小説を書き始めたりしていました。この頃、後にいじめ小説『オルゴール』が売れる、中園直樹さんと少しネット上で交流がありました。

 

 先述した「ネットで知り合った大人とのいじめ防止団体運営」(?)の話も、私が中学生になる頃に自然消滅しましたが、私は中2くらいまで情報収集や不登校関係の団体への問い合わせ、クラスの不登校の子との文通などは独自に行っていました。

 中2の頃に朝日中学生ウィークリーに投書した文章も残っていますので、ついでに貼っておきます。(※12/18一部編集)

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 中2の夏、戦争や平和について考える学外イベントで他校の女の子と知り合い仲良くなりました。高校生に混ざって「高校生一万人署名活動」にも参加していたりして、真面目な活動を積極的に行なっている彼女にはとても惹かれました。戦争の被爆に関する展示を一緒に観に行ったり、「高校生の主張」を聴きに行ったり、真面目なことを一緒にできる友達ができたのはとても嬉しかったです。当時私が通っていたのはやや荒れていた公立中だったので、英語教育に力を入れている私立中に通えていた彼女のことは、眩しい存在でもありました。

 彼女も私もバイオリンを習っていたことをきっかけに、やがて彼女の誘いで、二人で定期的に老人ホームの慰問をするようにもなりました。ただ、私が中2の冬に隣県の佐賀に引っ越すことになり、それを機にこの活動も終了。

 私はそこで音楽の良さを再確認したことや、合唱曲の魅力を同時期に知ったことなどをきっかけに、音楽療法や作詞作曲、声楽など音楽の仕事にも憧れるようになります。将来の夢に「Nコン合唱課題曲を作る」が加わりました。

佐賀時代(2003〜2007)

 長崎では変に目立っていたので、次の学校ではあまり出しゃばらないようにしよう……と思いながら佐賀に転校。受験勉強の合間に四コマ漫画やイラストを描いたりしつつ、やがて高校生になりました。(音楽系の学科のある学校にも憧れましたが、私はピアノが弾けないため断念しました)

 2004年、高1の夏に参加した「次世代リーダー養成塾」はとても刺激になりましたが、これを直接のきっかけにして起こしたアクションはこの頃はほとんどないです。

 高校時代に自主的に行った活動といえば、学校の遠足が中止になったことへの署名運動くらい?(結局うまくいかず)

 あと、当時は文章を書く人になりたかったので、ブログを書いていたほか、雑誌「公募ガイド」を見て短編小説や詩やエッセイを応募したりしていました。詩は全国コンクールで佳作を取ることができました。エッセイもいいとこまでいけたような。ただ、小説は箸にも棒にもかからず……という感じでした。

 音楽の世界への憧れも抱き続けていました。この頃は、「合唱曲やクラシックも、ポップスみたいに親しみを持って聴かれるようになって欲しいな。クラシックの曲に歌詞をつけて歌ったり、合唱曲をバンド組んで演奏したりしてもいいかも」とか思っていましたが、これらをするとしたら大学生以降だな、と思っていました。

京都時代(2007〜2012)

 やがて大学生になり、京都での暮らしが始まります。合唱や地理をテーマにした小説を書きたい、という思いもあり、文学部の地理学専攻へ。

 1回生のころはブログやmixi日記を書き続けつつ、普通の大学生活を楽しみます。2回生になったばかりの頃、当時の彼氏と別れたことをきっかけに「本格的に小説執筆に励みたいな」と思い文芸サークルへ。私よりずっと知的で力量もあり、面白い小説を書く人が多く圧倒されました。(そのときの同期のうちの1人は後に、学術的な記事が人気のはてなブロガーになります)2回生の終わり頃から、学術系の本を読む、他大学での勉強会にも顔を出し始めます(リーダー塾時代の友人がきっかけ)。音楽関係の活動も再開したいと思いつつも、再開させるタイミングを見失います。

 3回生の夏にビジコンに参加(参加したきっかけは、リーダー塾時代の友人が大学生になってやたらと「ビジコン」に参加していたので気になったから)。そのときに学生団体や社会起業などの概念を知り、「こういう世界もあったのか!」と衝撃を受けます。

 かつての私が行っていたような「平和な世の中にしたい。今の教育を変えたい」という理念に基づいて、法人を作ったりビジネスを通じた解決を目指す人々と会い、「そういうアプローチの方法もあったのか」と刺激を受けました。また、そういう真面目な活動が冷笑されず、きちんと評価される世界も新鮮でした。(一方で、胡散臭いひとも多く紛れやすいということを知ります)

 しかし、この頃に私は身体を壊してしまいます。やがて4回生になり調子を取り戻してきて、Twitterを積極的に使うようになり、活発に人とも交流します。「私も意識の高い人たちみたいに団体を作ったりなんらかの活動をスタート・再開させたいな」と思う反面、ずっと京都にいるつもりもなかったので、4回生の今このタイミングで自分が主体となる活動を始めるのもなぁ……と思い、誰かの活動や立ち上げを「手伝う」方向であれこれと携わっていました。読書会や勉強会、法学部の現代思想史ゼミ、朝活の類にも積極的に顔を出していましたし、友人たちをそれらのイベントに連れていったりもしました。

 小説は相変わらず下手ながらも書いていました。ラジオドラマ脚本の依頼が来たこともありますが、一応書いたものの変な結末になってしまったので結局使ってもらえなかったような。4回生終わりごろからは落語研究会と仲良くなり、「落語ミステリー」を書き始めたりもしていました。他大の友人から「スポーツチャンバラについての映画を撮ろうと思っていて、脚本協力をお願いしたい」という話も来ていましたが、こちらもやがて休止した模様。

 またこの頃、さまざまな分野で活動している学生たちのことを知ったことにより「意識の高い学生」について関心を持ちます。そういった若者論などに興味が湧き、阪大や東大の院で社会学的なことを勉強したいなと思いますが、親の説得もできず、自分でバイトしつつ勉強もしたいというほどのモチベーションもなかったのでひとまず諦めることに。

いろいろと不安定な状態で半年遅れで卒業し、就活したりバイトをしたり実家に帰ったりしていました。結局、ストレート四大卒の同級生からは2年遅れで就職。3ヶ月は東京で暮らしますが、そのあと配属先が決まり、名古屋で2年4ヶ月過ごすことになります。

神楽坂時代(2013)、名古屋時代(2013〜2015)

 そんなわけで、14年ぶりに東京で暮らすことに。3ヶ月の東京滞在中は神楽坂に住んでいました。24歳になったばかりのとき、「ニッポンのジレンマ」のパロディのUstream番組「ジレンマ×ジレンマ」を作っているメンバーからTwitterを通じて声を掛けていただき、登壇したりスタッフをやったりしていました。発達障害や貧困、生きづらさについてや、広義のセクシャルマイノリティLGBTだけでなく、ポリアモリーアセクシャル、性依存、性暴力被害者など)についての関心が高まったのもこの頃です。

 私が名古屋に行ってからも、Skypeミーティングに参加したり、たまに夜行バスで東京まで行っていましたが、やがて活動は休止。Twitterツイキャスでは、友達とラジオ配信したり、「アカデミックアイドルプロジェクト」や「空間論勉強会」だの「『不条理』展」だの「大人の修学旅行」だの、やりたい企画が続々出てきたりもしましたが、それらを実際に詰めていくまでには至らず。

 名古屋ではあちこちのイベントに出かけたりもしてみましたが、東京時代のような活動的な友人や仲間はほとんどできませんでした。(まち歩き・まちづくりに興味がある人、アート・建築に興味がある人、演劇界隈の人と多少の交流はありましたが)

 ある日「ジレンマ」時代の友人が文学フリマで同人誌を出すというので寄稿し、それから私も「同人誌づくりなら遠方に友人がいてもできる!」と思って同人誌を作ってみることに。名古屋でできた数少ない女友達のサポートもあり、2014年9月~2015年5月のあいだに3号出すことができました。

現在(2015〜) 

 2015年夏に身内が余命1年と宣告され、介護のために東京に異動することに。このとき私は26歳になっていました。

 東京では友達もすぐにたくさんできました。私がしばらく都内を離れているあいだに、いろいろなコミュニティも新たに出来ていました。

 ようやく念願の東京に戻ってくることができたものの、介護があるため「自分でなにかを立ち上げるようなことや、劇団や楽団などに所属するようなことは1年はしない。なにかするとしたら自分ひとりでできる創作活動」と思っていました。またこの時期は私もさまざまなことがあり、気力も体力もあまり余裕がない時期が多かったです。

 2016年頃から、起業やスタートアップ界隈の人たちとの交流も再び増えてきました。テクノロジーの最新情報を追うのが好きな友人との交流も活発になりました。科学や製薬業界と関わりがある人や、日本酒好きな人、投資に関心が高い人などとの交流が多かったのもこの頃です。「複業・パラレルキャリア・働き方改革」に関心が高い友人もこの頃に増えました。

 やがて、子どもの不登校やシングルマザー支援を行う人たちと交流する機会や、若者論についての著書を出した同い年の若手社会学者さんに挨拶できる機会、地理好き、まちづくりに関心のあるひとと再会する機会もたくさんありました。

 短歌を詠む友人とも数年ぶりに再会して交流したり、久しぶりに合唱の演奏会にいくつも顔を出したりして、文芸系の活動や合唱曲への憧れも再燃。

 そして何より今年は、広義のものづくりが好きな人たちと交流が生まれたことが刺激的でした。文学フリマだけでなく、コミケやデザフェス、M3、ウェブメディアびっくりセールなどいろんな即売会にもたくさん顔を出しました。

 欲しいものがないのなら自分で作ってしまおう。自分の世界観を表現したい。そう言って手持ちの技術を駆使してプロトタイプを作ってしまうひとの姿からは、子どものころにあれこれ試行錯誤していたころの気持ちを思い出させられました。

 

 そして、身内が余命宣告された日からもうすぐ1年、というある日。

 

 そろそろ別れる覚悟をしなくては、と思っていたのですが、

 

 病状は奇跡的に!快方に向かっていることが判明し、「余命1年」ではなくなりました。現在、宣告されてから2年半になりますが元気に生きています。

 

 もうなにも「活動できない」理由がなくなりました。念願の東京にも住めています。仲間集めも情報集めもしやすい環境です。今の私は妊娠中でも育児中でも、深刻な病気の療養中というわけでもありません。

 

 ……しかし、ここで気づきました。

 これまでの人生、憧れたことはたくさんあるものの、どれかひとつに本腰を入れたいと思えない。これまで居住地も関心ごとも多岐に渡ってきたのでどこかに落ち着いてしまうことが怖い、というかあまり想像ができない。

 結婚するなりしてパートナーや居住地が落ち着いたら私も落ち着くかな、と思ったりもするのですが、どうもそういう問題でもなさそうな。(相手と一緒に組んで何かをやる、というのならともかく)

 いまの私は、社会問題寄りなコトでいうと「働き方、キャリア支援」に関するあれこれに関心が強いですが、これはたぶん今の自分に身近な内容だから。思い返せば、小中学生時代は「いじめ、不登校」、大学時代は「意識の高い学生」、そして今は「働き方、キャリア」って、完全に自分の身近な内容からの興味です。このまま順当に行くと、次は「夫婦の関係性のあり方」とか「子育ての制度、教育」とかに興味が向かいそう。

 ホリエモンは、著書『多動力』などで、「肩書きをいくつも組み合わせることによってレアキャラになれる」「すべての分野で100点になる必要はない。80点取れるようになったら次の分野に行く」ということを言っていたけれど、私の場合80点も取れてない。せいぜい60点程度。せめてどれかで名前が売れていたりヒットを出せていればよかったんだけれど。あぁ、結果がなかなか出ないからといって撤退するんじゃなかった。投げ出すんじゃなかった。諦めるんじゃなかった。

 それで冒頭の嘆きに戻ります。「小・中学生のうちから、マーケター感覚を持ちたかった」。

 

 私、幼稚園の頃からいじめられていて、2003年に佐賀に引っ越すまでどの地域でもだいたいいじめられていました。友達はそれなりにできた地域とあまりできなかった地域がありました。

 幸い、いじめについて「あなたは悪くないよ」と言ってくださる大人にはたくさん出会うことができましたが、「いじめはするほうが悪い」というのは理屈として間違ってなくても、それにそのまま安心しているだけだと次のステップには行けないんですよね。

 製品として問題がない無難なプロダクトや、内容におかしなところや間違いがないコンテンツができているからといって、それが「売れるもの」になるとは限らない。

「私は悪くない。間違ったことはしていない」と思うことができたり、それを主張することも、とても大切なことだと思います。

 でもそれって、あくまでもマイナスだったものをゼロに戻しただけという見方もできるわけで。

 そこから価値を生み出せる人間になるには、「好かれる人ってどういう人?」「やりたいことの実現に協力してくれる仲間や、支援してくれる大人が必要だよね」「どうすれば、どこに行けばそういう人と出会えると思う?」って考えるステップが必要だったな、と。引っ越しが多く活動を継続することが困難で「昔から活動を見守ってきている」という存在が作りにくい私は、短期間のうちに上記の内容をすべきだったなとも思います。(一方で、すぐに結果が出そうにないから、といって早々と撤退する必要もないということも覚えておきたい)

 あと、いやらしい話になりますが……、

 女子児童・生徒・学生という肩書きを活かしていたら。その若さや市場価値をもっと自覚できていたら。大人に協力してもらえていたら。うまくメディアに売り込めていたら。

 そんなこともつい、考えてしまいます。

 そもそもいじめられていなかったら、「自信を取り戻す」なんてステップを経由する必要なく「どうすれば選んでもらえるか」のほうに意識を向けられたのに。そもそも「お前はキモい」なんていじめられていなかったら、自分の価値を自覚することができたかもしれないのに……。

 気持ちに余裕がないときはつい、そんなことを思ってしまいます。そんな自分自身に同情はするけど思考の癖としてはこれは望ましくないと思う。なにも生産的じゃない。

 こうやって、考えてもどうにもならない過去にとらわれ、建設的ではない方向からあれこれ思い悩むこと。それこそが「こじらせること」なのかな、と思います。自罰的か他罰的かということはあまり関係なさそう。

  

 

 小学生のころに住んでいた代々木の団地は現在は廃墟になっており、小学校も閉校。オルタナティブスペースはともかくとして、今なら小学生が「ひみつきち」を作るのは夢じゃなさそうです。(余談ですが、友人が住むシェアハウスが元小学校の近所にできていてびっくり)

 そのときの担任教師は今は教員を辞め、自主製作映画などを作ったり、社会運動的な活動に携わっているようです。(余談ですが、名古屋時代に知り合った友人とこの先生が繋がっていることが後に判明しました。びっくり)

 小学生新聞をきっかけに知り合った、ホームページを自作していた同い年の女の子は、今もサイト制作の仕事をしているということがFacebookで判明しました。(ビジコンで同じチームだった人とかシェアハウスで知り合った人とか、共通の友人が結構いた。びっくり) 

「いじめから友達を守る会」を立ち上げたあのときの高校生の方は、現在はITベンチャーを経営しているようです。http://www.e-avanti.com/16929(共通の友人はやはり何人かいてびっくり)

 

 私はこれからどうする? どうなる? 28歳なんてそれぞれの分野である程度の成果を出しているひとも多い年齢。

 もし、こんな私の「挫折の経歴」に興味を持ってくださった方がいらっしゃれば。一緒に何かやりたい、という方がいらっしゃれば。どういうカタチでもいいので一報いただけたら嬉しいな、なんてことを思います。

 これまで割と出し惜しみしていたのですが、ここに挙げたこと以外にもやりたいアイデアはたくさんあるので、このブログかnoteあたりで今後少しずつ出していけたらな、とも思っています。

 

 ちなみに、サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダーとしての次回予告としては、明日は @m7256699943 さんの記事が更新されるようです。サークラ同好会のブログのほうも、これを機に、よかったらぜひチェックしてみてくださいね。

 まくはりうづきでした。

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