これからも君と話をしよう

一度はここから離れたけれど、やっぱりいろんな話がしたい。

好きと嫌いと不快について ──食と文化を考える──

 先月末、はてなブックマークにてこんな記事が話題になっていた。 

nlab.itmedia.co.jp

「好き嫌いが多すぎるので、嫌いな食べ物のリストを部署内で共有している」という編集者Bさんのエピソードを、漫画を交えつつ紹介しているこの記事。

 コメント欄では賛否両論のようだ。

「こういう人とは関わりたくない。飲み会に来て欲しくない」

「好き嫌いがあまりにも多すぎる人は、人格に問題があると思う」

「親のしつけがなっていなかったのでは」

「何か精神医学的な原因があるのでは」

という意見もあれば、

「そういう人もいるんだから、多様性も認めようよ」

「好き嫌いと人格を結びつけるのは差別的では」

「感覚過敏の場合、親のしつけとは無関係かもしれない」

「自分も好き嫌いが多いから、人格否定に結びつけられるとつらい」

という意見も見受けられた。

 

 私自身はどう思ったかというと、この記事には正直、不快になった。

(「もしかしてこの人は、食事や飲み会に誘われたくないからあえて『好き嫌いが多い』ことにしているのでは……?」とも思ったけれど、だとしたらそんな面倒臭い方法を取ったり、わざわざ嫌いなものリストを共有する必要はないだろう)

 

 では、どの点を不快に感じたのか。不快と感じた人がどうして多かったのか。その理由を考えてみた。

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開き直っているように見えるから?

「好き嫌いが多いこと」「嫌いな理由を挙げていること」について、Bさんが申し訳なさそうにしていたらまた印象は違ったかもしれない。

 しかしこの記事を読む限りだと、冒頭部のBさんは笑顔で描かれており、好き嫌いが多いことを面白おかしく話しているように見える。

 これだけの量の好き嫌いがあり、ヴィーガン対応やアレルギー表示のある店で対応できるわけでもないということを考えると、同じ部署の人は配慮もさぞ大変だろう。その点についての気遣いや申し訳なさが感じられないことから、図々しさを感じてしまった。

 

読者への配慮が感じられないから?

 Bさんはあくまでも、友人との内輪話のつもりで話していたのかもしれない。しかし、この記事の読者には様々な人がいる。農業・畜産・水産業に従事する人もいるかもしれないし、それらの仕事の従事者を身内に持つ人、食材の運搬や調理、飲食店の経営等に関わる人もいるだろう。

 サラダについて「そのへんに生えている植物」と表現するのは、友達との冗談話なら笑えたかもしれないけれど、農業の仕事をバカにしているようにも思える。この発言を公開することは、農業従事者に対しても失礼なのではないだろうか。

 もちろん、嫌いなもの・食べられないものがあることは仕方ないし、好みを表現することも自由だ。

 ただ、「これが嫌い、あれが嫌い」と失礼な表現混じりで面白おかしく全世界に向けて発信してしまったら、「そういうことを言う人のことは私も嫌い。こちらのご飯も不味くなりそう。一緒に食事をしたくない」という反応が寄せられるのも、致し方ないだろう。

 

わざわざ「理由」が書いてあるから?

「飲み会やランチで困らないように、食べられないものを共有したい」という目的であれば、わざわざ理由まで書く必要はないように思える。しかもその理由について、モザイクをかけるくらいの表現を使っている行為は疑問に思った。

 ただこれに関しては、「理由を書いておくことにより、苦手なものの傾向をわかってもらいやすい」というメリットはあるのかもしれない。

 

あと、細かいことだけど。

 リストの中で「しいたけ」と「きのこ全部」という項目があるのが気になった。

 しいたけとそれ以外のきのこを分けるとしたら、「きのこ全部」ではなく「他のきのこ」とすべきでは……? 編集のお仕事なのにそのあたりは気にならないの……? なんてことを思ってしまった。

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じゃあ、どうすればよかった?

 では、どうすれば良かったのだろうか。

 コメントの中には、ライターの斎藤さんの「全く共感できないけれど面白い」という受け取り方に好感を持っていたり、多様性を尊重する態度が良いとするものも多いようだ。

 しかし私はあまりそのようには思えず。むしろ、斎藤さんにはもう少し頑張ってもらいたかった。

 これだけの好き嫌いがありつつも、配慮してもらえて飲み会に呼んでもらえるBさんはきっと魅力的な方なのだろう。「好き嫌いが多い」というだけではない、Bさんの特徴や魅力について、もう少し説明が欲しかった。

 

 また、

好きな気持ちと嫌いな気持ちって、ひょっとしたら紙一重なのかもしれませんね。

 記事の最後に、斎藤さんはこのように結んでいる。ここをもう少し広げれば、読者の抱いた不快感も多少は緩和されたのではないだろうか。

 たとえば、Bさんの「嫌いなものリスト」の嫌いな理由の横に、ライターさんは「その食べ物を好きな理由」を書いてみてはどうだろうか。 

 こんな感じに↓

f:id:wuzuki:20190513173221p:plain

 ……んー、でもこうやって並べてしまうと、Bさんがその食べ物を嫌いなことを打ち消したい、否定したいような書き方に見えなくもないなぁ。

 こうやって「バランスを取ろうと思って好きな理由も入れよう」とすると、嫌いな理由のインパクトは緩和されるものの、Bさんのユニークな感受性が霞んでしまい、結局なにを伝えたいのかわからない記事になる気もする。

 そもそもこの記事自体、別に炎上しているというわけでもないし、失敗というわけでもないだろう。多様性や好き嫌いへの問題提起としては、現状のままで十分良い記事とも言えるのかもしれない。

 

 相互理解って口で言うほどたやすくないこととか、「敏感、過敏であること」がある種の弱みにも強みにも機能することとか。このブログ記事を書くことによって私もあれこれ考えさせられた。そして食材の名前を見ていたらおなかがすいてきた……。

 たとえばこのBさんの好き嫌いに合わせた食事に行くとしたら、焼肉食べ放題とかデザートバイキングとかになるのだろうか。どちらも久しく行ってないな……。

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吉祥寺PARCOフリマに出店してみた結果

 保険の営業について「晴れの日に傘を売るようなもの」と例える方もいた気がしますが。

 そんな晴天の4月21日(日)、友人たちとフリマに出店をしてきました!

 

 今回参加したのは、このフリーマーケット

trx.jp

 吉祥寺パルコの屋上で毎週、開催されているようです。

 

 同年代の女友達2人男友達1人、そして私の、計4人で出店することに。(本当はもう1人男友達が入る予定だったけど仕事で来れなくなった)

 出店料は1ブース2,500円で、割引券を使って2,300円。これを4人で割ると、1人あたり575円の出店料で済みます。

 

 私の出品物は、こんな感じ。

docs.google.com

 雑誌の付録や、買ったけど結局使わなかった文具、未使用のファッション小物、あまり高くないブランドの服などがメイン。

 

 ほかの仲間は、

 Yちゃん……アクセサリーと服がメイン、割といいブランド小物や、文庫本が少し(アクセは市販のものもあれば、ハンドメイド作家さんが作ったものも)

 Eちゃん……ほぼ新品のバッグや靴、割といいブランドの小物や服、マンガ本のセット

 Mくん……使い込んだバインダー数枚、ビニール傘数本

などを持ってきていました。

 

「ちょっと待って。ビニール傘!?」

「この晴天の日に、ビニール傘なんて売れるの!?」

「安くすれば売れるんじゃないかな」

「そういう問題かなぁ……」

 そんな会話をしつつも、着々と準備は進んでいきます。

 

 8:40に受付を済ませ、フリマ準備。

 準備の様子。

 

 10時少し前くらいから、ちらほらとお客様がやってきました。

 

「このフリマは値引きが活発に行われている」という情報を得ていたので、値段は全体的にやや強気に設定。元値は3,000円くらいだった服は、500〜1,000円程度に設定しました。

 Eちゃんの新品のバッグや服は、2,000円前後のものが多かったような。Yちゃんのアクセサリー類は500円程度。そしてMくんが持ってきた傘は1本10円、バインダーは20円で売ることに。

 

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 ……結果、

 服、なかなか売れない!!

 私の出品物に関しては、INGNIのロングカーディガンと、SUZUTANのワンピースが売れたくらい。

「あまり持ち帰りたくないから、売れそうな綺麗なものしか持ち込んでない」と言っていたEちゃんの出品物は、手に取っていた人も多かったです。

 

 私は、私や妹が大学時代に着ていた服を中心に出品。

 10〜20代が着る服が多いため、おばちゃん多めの今回のフリマでは「私が着るには、ちょっと若すぎるわぁ〜」と言われてしまったり。

 PARCOということで、若い女の子たちも何組か訪れてくれましたが、私が出品した服は手に取ってはもらえるものの、売れず……。

「値札よりもずっと安くできますよ!」とアピールしたものの、そもそも値段の問題ではなさそうな感じでした。まぁ、「安かったら、多少似合わなそうなものでも買う」というものでもなさそうですし。

 

 ……そんなわけで、服の売り上げは今ひとつ。

 ただ、意外と変なものが売れた!!

 服は売れませんでしたが、意外なものは売れました。

 

 私の出品物で言うと、

 キッチンの戸棚用のシート。レース暖簾。(100均で買っていたけど結局使わなかった)

 5本指ソックス、指先用ソックス。Amazonでセット買いしたけど、思ったよりも使いづらくていくつかは未開封だった)

 IDカードホルダー。手鏡。(雑誌の付録)

 千羽鶴用のミニ折り紙。(母の病気も治ってきたので不要になった)

 腹巻き、手鏡、折りたたみ帽子。(福袋に入っていたり、メルカリのおまけとしていただいていた)

 HDDケース。(友人が捨てようとしていたところをもらった)

 アルコールマーカー。(カラーイラスト用に買っていたけど最近はもう使っていなかった)

 これらは売れました。

 どれも安いものではあるけど、未使用品や、実用的なものだったので売れたのかもしれません。

 

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 ただ、ちょっと失敗だったのは、フリマ開始当初にたくさんの人に手に取ってもらえていた「ドローイングインク」について、値引きを渋っていたらやがて誰からも手に取ってもらえなくなってしまったこと。

「もうしばらく経っても売れなかったら、値引きします。今はまだ始まったばかりなので……」と断っていましたが、そんなことはせず、さっさと売ってしまえばよかったなぁと後悔。まぁ、そんなことがあるのもフリマの面白さなんでしょうね。

 

 

 そして……

 ビニール傘、売れた!! 意外と売れた!!

 

 これには驚きました……まさかクソ暑い晴天の日にビニール傘が売れるとは……。

 この日は日差しの強い、とても暑い日。日傘じゃなくても、半透明のビニール傘は日差しを遮るのにピッタリ……ということで、ビニール傘を日傘がわりに買っていく方が何人もいました!! そんな使い方をする人がいたとは……!!

 

 そしてMくんの出品物だと、使い込んだ形跡のあるバインダーもいくつも売れていました。

 多少の汚れは目立つものの、1個20円と安いし、使い込まれただけあって丈夫そう。少し珍しい形のものもあったので売れたのかもしれません。

 というか今回、持ってきたものがいちばん売れたのってMくんだったかも。ビニ傘もバインダーも10〜20円での販売なので、売り上げとしては低めとはいえ、Mくんは私たちの中でいちばん会場に近くに住んでいるということもあり、交通費を考えるとこれはかなり手堅い出品だったのではないかと思います。

 やがて、14時過ぎにフリマは終了。

 Yちゃんはアクセや服、Eちゃんは靴やバッグ、漫画のセットがよく売れていたようです。

 ハイブランド品かガラクタの、どちらかの両極端なものが売れやすい印象を受けました。

 私の売り上げは、2,560円。アルコールマーカーのセットを1,000円で売れたのが大きかったです。

 

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 売れなかったものについての、不用品回収的なことは会場では行っていません。

 ただ、吉祥寺は古着屋さんが多いことは調べていたので、私は売れ残りは全部売って帰ることにしました。

 どこに売ろうか迷ったものの、「モードオフ 吉祥寺店」にすることに。

とwww.hardoff.co.jp

 佐賀や名古屋のブックオフに服を売ったことはあったので、似たような感じかな……と思ってここに。(ブックオフハードオフは別会社のようですが)

 27点の服を持ち込んで30分後、査定結果が出ました。

 値段がついたものは、3点。

 査定金額合計は、30円でした……。

(ただ、値段がついたものはどれも少し前の安い服だったので、どういう査定基準だったのかは謎……)

 

 こんなことなら、フリマの時に「どれでも1着50円です!」とか、破格の値段にして売りさばいたほうがよかったのかもしれないな……。

 まぁでも、着なくなった服は引き取ってもらえたし、みんなでワイワイ言いながらフリマするのは楽しかったし、少しはお金になったから、いっか。

 そんな、フリマ出店体験でした。

 

 また機会があったら、出店してみたいな。

 

マービー ルプルーム 24色基本セット 3000-24A

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ウィンザー&ニュートン ドローイングインク 14ml 12色セット

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フリーマーケット完全マニュアル

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まくはりうづきの本名は? 学歴は? 家族構成は? 調べてみました!

 ……という記事を書かれないために、あらかじめ書いておこうと思います。もし私の身に何かあった場合、間違った情報が拡散されると困るので。

 

 ……とはいっても私、もともと隠している情報もあまりないんですけどね。

 その理由は以下の通り。

  • 引っ越しが多い人生だったこともあり、情報を開示しておいたほうが昔の知人にも見つけてもらいやすい
  • 隠したところで、探ろうとする人は出てくる
  • 「公開SNSでは、本名やリアルのあだ名では呼ばないで」などと友人に注意しなくて済む

 パソコンからこのブログを見ている方なら、左の「フォローする」ボタンのところに、私のFacebookプロフィールへのリンクが貼ってあることにも気づけるかと思います。まぁ、そこに書かれていることが、公開できる情報のほぼすべてではあるのですが。

本名は?

 この「まくはり うづき(Makuhari Wuzuki)」というペンネームは、本名をローマ字にした「Hurukawa Mizuki」のアナグラムです。

 厳密には、Hurukawaではなく「Furukawa」で、「うづき」は「Wuzuki」ではなく「Uzuki」とすべきなんでしょうけど……(苦笑)。

 下の名前はひらがなです。本名のほうは「づ」ではなく「ず」です。

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年齢は? 学歴は?

 1989年3月2日 長野県長野市生まれ

 1992年春  東京都東久留米市に引っ越し

 1993年春  東久留米市上の原幼稚園*1

 1994年春  岡山県岡山市に引っ越し。岡山市立三勲幼稚園へ

 1995年春  岡山市立三勲小学校に入学

 1996年夏  東京都渋谷区へ引っ越し。渋谷区立代々木小学校*2

 1999年春  長崎県長崎市へ引っ越し。長崎市立伊良林小学校へ

 2001年春  長崎市立桜馬場中学校に入学

 2003年冬  佐賀県佐賀市に引っ越し。佐賀市立成章中学校へ

 2004年春  佐賀県立致遠館高校普通科英語コースに入学

 2007年春  立命館大学文学部地理学専攻入学。京都府京都市

 2011年秋  大学卒業

 

 精神的に不調だった時期があるため、大学卒業が半年遅れています。「ネットのやりすぎで留年か?」と2chに書かれたこともありますが、それはデマです(笑)。

 2013年3月から就職しています。業務と無関係の場では職場の名前は出さない方針なので、勤務先は非公開にしています。

 2013年春は神楽坂、2013年夏~2015年夏まで名古屋、それ以降は都内(港区)に住んでいます*3

家族構成は?

 上記の年表で言うところの「長崎時代」までは父が公務員でしたが、その後、佐賀に引っ越し、父は政治家へと転職*4しています。

 ネットに書かれている情報は微妙に間違っているものがいくつもあるので、情報源として信頼しないでいただけると助かります。(たとえば、両親が知り合ったのは長野となっていたり、母が父より4つ年上と書かれているものがありますが、これはどちらも間違いです)

 また、私自身も、家族や友人に関する話をする際は、軽くフェイクを入れて投稿することがあるので、家族に関する情報は、私が発信したものも含め、あまり信頼しないでください。

 うづきのはなしは信じるな

 オープンなカタチでSNSを使っている家族ばかりではないので、ご理解をお願いします。

顔写真は?

▲幼稚園年長、5歳頃(岡山時代)

 

▲小学校の卒業アルバム。11歳頃(長崎時代)

 

 ▲中学1年、12歳の頃のプリクラ。(長崎時代)

 

▲大学2回生、19歳頃(京都時代)

 

 いまの家には昔のアルバムがないので、あまり写真が見つかりませんでした。

 また見つかり次第、載せたいと思います。

 これでもし私が事件や事故に巻き込まれた際も、マスコミが卒アルを探す手間が省けますね!

恋人は? 結婚は?

 ツイログで「恋人」「交際」「彼氏」「彼女」「夫」「妻」「結婚」「離婚」「パートナー」「配偶者」などのキーワードを入れて調べていただければ、公開できる範囲での最新のステータスが分かるかもしれません。

 ただし、誰かとパートナーシップを結んだり別れたりするたびに書いているわけではないので、参考程度だと思っていただければと思います。

過去のアカウント名は?

 現在は、SNSは「wuzuki」(はてななど)、「wuzuki_」(Twitter、noteなど)で行なっているものが多いですが、2015年頃までは「ginsetsu」アカウントを使っていたものもあります。*5

 InstagramFacebookに関しては「ginsetsu」*6時代のものを使い続けています。

 

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 ……いかがでしたか?

 以前から私のことを知っていた方も、初めて知ったという方も、今後ともよろしくお願いします。

 もっといろいろ知りたい、という方は、各種SNSをフォロー・お気に入り登録したり、このブログの過去記事などを読んでいただければと思います(笑)。

 

 ……ちなみに。もし私の身に何かあった場合、このテのゴシップ記事が書かれることは、私個人は構わないのですが*7、私の家族やパートナー、友人等の関係者に迷惑を掛けることはしないでいただければと思います。

▼ちなみに、以下の本に、父のことが載っているらしいです。

社長・溝畑宏の天国と地獄 〜大分トリニータの15年

社長・溝畑宏の天国と地獄 〜大分トリニータの15年

 
一流たちの修業時代 (光文社新書)

一流たちの修業時代 (光文社新書)

 

*1:現在は廃園。

*2:現在は廃校。

*3:2019年4月現在。最新の情報はFacebookやツイログでご確認ください。

*4:私の本名の苗字と居住地を組み合わせて検索すれば、それらしい経歴の人物はすぐに見つかると思うので、名前などは書かないでおきます。私は、基本的には「娘」として発信しているわけではないため、父の立場と結びつけられることは本意ではないので。

*5:はてなTwitter、noteは「ginsetsu」名義のアカウントも残っていますが、こちらは現在はほとんど使用していません。

*6:「銀雪」というのは以前使用していたペンネームです。

*7:ただし、それで得た収益の一部は独占せず、どこか良きところへ寄付をお願いします。

30年生きてこられたことへのお礼

 いよいよ、この日がやってきた。

 2019年3月2日(土)。

 

 この日、私はとうとう30歳になりました……!

 20代が終わって、とうとう30代。

 大半の同級生にようやく追いつきました……!(笑)

 

 今年も、誕生日会を行いました。

 今年の開催場所は、蒲田にある銭湯「ゆ~シティー蒲田」の宴会場。

 たくさんの友達が集まってくれて嬉しかったです……!

(人数の都合もあり、興味を持っていただいたのに呼べなかったみなさま、すみません💦)

 

 みんなの出し物も、とっても楽しかったです!!

 

 

 

 

 友人の、佑子さん(id:kondoyuko)も、絵日記を描いてくださりました!

▼こちらより引用。

note.mu

 

 みなさんからプレゼントもいただきました。ありがとうございます……!

 

  お菓子も小物もお酒も、見事に私好みのものばかりで、毎日がより一層、楽しくなりました。

 

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 ……ところで、私の誕生日である「3月2日」。

 この日は、昨年「目黒女児虐待事件」として5歳の女の子が命を落とした日でもあります。

 ちょうど去年の3月2日の18時頃────私は誕生日会のセッティングなどバタバタしていたときに、同じ都内の近隣のまちで、1人の子どもの命が、痛く冷たく怖い思いを味わいながらこの世から消えていったのかと思うと、居たたまれない気持ちになります。

 

 もちろん、この子に限らず、日本中、いや世界中でさまざまな理由でさまざまな人たちが命を落としている現実はあるでしょう。

 

 みなさん、さまざまな意見や考えもあるかもしれませんが。

 私の誕生日会の余剰金は、子どもの支援に関わっているNPOに、寄付させていただくことにしました。

 

 私が30年生きてこられたのは、タイミングや運の良さ、そして直接的・間接的なみなさまの支えだと思ってます。

 なので私も、より直接的な形で、その恩恵を他者に還元できたらな、と。

 

 

 誕生日会にかかった費用は、

 会場代 17,690円

 飲み物代 4,838円

 備品(名札、紙コップ、紙皿など) 約500円

 

 会費として集まった金額は、

 30,000円

 

 余剰金は、

 6,972円

 

と、なりました。

 

 どの団体に寄付をしようか考えた結果、複数の団体に少額ずつ寄付することにしました。

 

オレンジリボン運動 

www.orangeribbon.jp

 支援グッズを2,956円分購入。

 

 ちなみに内訳は、

 携帯ストラップ 864円

 キーホルダー 1,300円

 ステッカー 432円

 送料 360円

 

 

NPO法人 フローレンス

florence.or.jp

 

 2,000円、寄付させていただきました。

 

 

NPO法人 3keys

3keys.jp

 こちらにも2,000円、寄付させていただきました。

 

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 思えば、このようなカタチでどこかの団体に寄付をしたのって、初めてかも。

 フローレンス代表の駒崎さんや、3keys代表の森山さんのTwitterは2010年頃からフォローしていて、気持ちの上ではずっと応援していたけれど、具体的な支援をしたことはありませんでした。

 

「日本は欧米と違い、寄付文化が根付いていない」なんて声もあったりしますが。

 私は寄付をすることで、各団体への活動への関心も強くなりました。

 私の寄付金額は微細なものかもしれないけれど。これから、ひとりでも多くの親や子どもの命が救われることを願います。

 

 これを機に、ほかの団体への寄付についても、もっと積極的に行ってみようかな。(まぁ、そんなに頻繁に寄付できる余裕があるわけではないのですが)

 そして、寄付のお礼メールのスクショを取るのも良いけど、「寄付したよ」ということをわかりやすくシェアできる・シェアしたくなるような仕組みがあったら、寄付のムーブメントももっと起こしやすくなるのかも……なんてこともぼんやりと考えてみたり。

 

 来年の確定申告はちょうどほぼ1年後だけど、寄附金控除についてもきちんと調べておこう……。

 

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世界一子どもを育てやすい国にしよう

世界一子どもを育てやすい国にしよう

 
「社会を変える」お金の使い方――投票としての寄付 投資としての寄付

「社会を変える」お金の使い方――投票としての寄付 投資としての寄付

 
授業づくりネットワークNo.19―格差と授業。 (授業づくりネットワーク No. 19)

授業づくりネットワークNo.19―格差と授業。 (授業づくりネットワーク No. 19)

 
ルポ 虐待 ――大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)
 
ルポ 消えた子どもたち 虐待・監禁の深層に迫る (NHK出版新書)

ルポ 消えた子どもたち 虐待・監禁の深層に迫る (NHK出版新書)

 
30代にしておきたい17のこと (だいわ文庫)

30代にしておきたい17のこと (だいわ文庫)

 

ベトナムへの関心

ベトナムが気になる

「誰かベトナム行きませんか? 間違ってチケットを買ってしまいました」

 2018年12月中旬のこと。ある友人がFacebookベトナムに行く人を募集していました。

 12月26日から2泊3日、4万円でお譲りする……という内容に一瞬心惹かれたものの、私はこの日に予定が入っていたので断念。(結局もらい手は見つかったようです)

 

ベトナム料理を食べる

 年が明けて、2019年1月中旬。

 大学時代からの友人から、新宿にあるベトナム料理屋に行かないかと誘われました。友達と3人で行くことに。

 今回行ったお店は、新宿というか代々木にある「ベトナムガーデン」。

 美味しい……!

 

 全体的に、ちょっとボリュームは多めかも。でも、フォーも春巻もデザートも蓮茶も、どれも素直においしかった!!

 この日は、じつはあんまり食欲がありませんでした。

 でも、料理をひとくち食べるたび、食欲も落ち込んでいた気分も回復していきました。

 

 お店には、外国人のお客様も多かったです。

 代々木は20年前に住んでいた街でもありますが、このお店は知りませんでした。評判がいいのも納得。ここは万人におすすめできるお店だなと思いました。

[tabelog:63793:detail]

 ちなみに、ポケモンGOポケストップにもなっていました。

 

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ベトナム研究の話を聴く

 そんなベトナムガーデンの余韻も醒めきらない、翌週の1月26日(土)。

 私は早稲田大学を訪れていました。

 友人のこの投稿を読んだのがきっかけ。

 尊敬する年上の男友達・坪井遥さん。Twitterきっかけで繋がって8年くらい。

 知的で面白い坪井さん。そのお父様の講義ならきっと面白いだろうし、坪井さんにも久しぶりに会いたい。ちょうど私、このまえベトナム料理食べてきたばっかりだし……なんて思いで来てみました。

「最終講義というよりは、中間報告という感じです」というお話から始まった最終講義。

 坪井先生は、ベトナム反戦運動や、ベトナム人は朝食に何を食べているのか」という疑問を持ったことをきっかけにベトナム研究を始められたそうです。

 ベトナム研究のためには、ドイツ語、オランダ語、ロシア語もやるように言われたこと。フランス語は書くのとしゃべるのが全然違うこと。

 東洋史学者の山本達郎先生にお話を聴きにいったこと。フランスに留学し、コンドミナス教授にお世話になったこと。すごい先生は指示が短いながらも的確であるということ。

 北海道大学法学部の助教授時代に手がけた単行本が、「渋沢・クローデル賞」(※日仏会館と読売新聞社が主催する学術賞)を受賞したこと。

 そのほか、在ベトナム日本大使館専門調査員として外務省に出向されていたときのお話も、印象的でした。

 当時のベトナムは貧しく、みんな小柄で痩せていたけれど、心優しく文化や教養はある人が多かったということ。

 ベトナムは暑いので牛がお乳を出さないため、ミルクがなかなか手に入らない。子どもの粉ミルクにも困った、ということ。

 ベトナム語で出した本が、今も現地で読まれているということ。

 岩波新書から出した『ヴェトナム 「豊かさ」への夜明け』が、アジア・太平洋特別賞を受賞したということ。(1992年から国交が正常化し、ベトナムブームが起こったことが大きかったそうです)

 早稲田大学に移られてからは、JICA専門家としてもベトナムに関わっているということ。etc……。

 

 そして何より、講義の終盤のメッセージが印象的でした。

 日本は現在、労働力を外国人に頼っているけれど「一人の人」ではなく「労働力」として見ている。

「困っているから助けてください」という姿勢であるべきなのに「雇用を広げている」という思い上がった態度でいるのは良くない。

 日本では英語も通じないから、近年はフィリピンの人も、カナダやオーストラリア、台湾に行っている。これらの国では外国人労働者を歓迎する準備がある。最近は韓国でも、悪徳な業者を排除する仕組みが作られている。

 ベトナム人で「日本に来たい」という人も少なくなっている。日本企業に就職したベトナム人の若者が冷遇され、それで親が反日になってしまった事例も。

 日本は、外国人観光客を「お客様」として歓迎はするけれど、自分たちの生活は見せない。「外の人はウェルカムだけど、内には入れない」という姿勢。

 自分の研究が無力なのが悔しい。でも諦めずにやっていきたい……というお話をしながら、涙を滲ませていた姿は、私の脳裏に強く焼き付きました。

 

 坪井先生は、早稲田では「鬼」と呼ばれていたくらい厳しい教授だったそうです。教え子にとっては感慨もひとしおだったんだろうな……。

 

 年を取るとひとの話を素直に聞けなくなることへの自戒、良心に忠実であることの大切さ、(組織にいると難しいこともあるかもしれないけれど)ぶれない信念を持っていると中長期的には信用されるということ、これまでの教え子たちがそれぞれメッセージを受け取って各々の分野で活躍していることの喜び、などのお話が続いて講義は終わりました。

 教室の隅で、坪井先生の息子さんの遥さんとお会いできたので、すこし立ち話。坪井先生の著書は岩波新書のものは特に評判が良く、「地球の歩き方」で引用されているくらい一般の人にも読みやすいようなので、これを機に読んでみることを決意。

 

 ベトナムか──。

 そういえば大学時代、一時期なぜかベトナム人と交流する機会があったな。

 海外旅行どころか、国内すらあまり積極的に旅行する趣味はない私だけど、こうしてベトナムに縁を感じる出来事が続いているからには、一度足を運んでみてもいいのかもしれない……。

 そんなことを考えながら、教室を後にしました。

 

 早稲田大学の構内のカフェテリアが営業していたので、立ち寄ってみました。

 

 雰囲気いいし安い……!! 

 私はシーフードカレーのセットをいただきました。これで880円!

 

外国人労働者が気になる

 それにしても、外国人労働者の待遇ってどうにか改善できないのかなぁ……と考えているうちに、ふと思い出しました。

 そういえばFacebookでも、移民や外国人労働者について考えるイベントがいくつかタイムラインに流れてきていたような……。

 そして、とあるイベントページを見ていて気づきました。

 あっ……! このドキュメンタリー映画の上映会に登壇する土屋トカチ監督って、このまえの映画上映会の打ち上げ*1でお会いした方だ!

 そういえば、労働問題についてのドキュメンタリーも撮っていらっしゃったんだっけ。

 世界が一気に繋がった気がしました。

 

 これまで私にとって、「自分ごと」の問題ではなかった外国人労働者の問題。

 でも、近い分野の研究や活動をしている方の仕事を知ることにより、他人事ではないと思えるようになった気がします。

 すこし、ベトナムとの距離を縮めることができたような。

 そんな気がしました。

 

 ベトナムにはどういう歴史や文化があるの?

 外国人労働者の現状は?

 どうしてそのような事態になっているの?

 何がどうなれば改善に繋がりそう?

 

 購読しているマーケティング情報誌「MARKETING HORIZON」も、今月号はこんな特集が。

 歴史や問題だけでなく、東南アジアの最新のトレンドについても気になるところです。

 ベトナムをはじめとする東南アジアについて、私なりのペースで目を向けていきたいな。

 

おまけ

 ベトナム料理のお店といえば、渋谷にあるこのお店も美味しかったよ!

[tabelog:2670609:detail]

 目黒店もあるみたいなので、そちらも気になってます。

  

 ……そして、これは余談だけど。

ベトナムガーデン」を教えてくれた女友達は、大学3回生のときからの友達で、昨年ドイツ人と国際結婚。

ハノイのホイさん」を教えてくれた女友達は、大学1回生のときからの友達で、現在は香港で子育て中。

 どうやら、海外経験の多い友人が紹介してくれるお店は信頼できそうだ……!

 

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ヴェトナム―「豊かさ」への夜明け (岩波新書)

ヴェトナム―「豊かさ」への夜明け (岩波新書)

 
ヴェトナム新時代―「豊かさ」への模索 (岩波新書)

ヴェトナム新時代―「豊かさ」への模索 (岩波新書)

 

*1:前回のブログ記事の後半参照

二十年の孤独 ──代々木の森から──

 ふと思うんです。代々木生活も、長崎生活も、佐賀生活も、本来別々の人間が過ごすはずの人生だったんだろうな、って。それがなにかの手違いで、私というひとつの身体で使いまわすことになってしまっている。そう考えています。
 そう考えると、ほんとうにいろんなことがしっくりくるんですよね。そう思わないとやっていけないだけ、かもしれませんが。

 

 2019年1月22日(火)、18時20分過ぎ。JR飯田橋駅のホームで、私は硬直していた。足がすくんで動けない。なんだこれ。

 これから向かうのは、東京ボランティア市民活動センター。ドキュメンタリー映画の上映会が行われる。

 映画のタイトルは沖縄から叫ぶ 戦争の時代。自主制作のドキュメンタリーだ。沖縄の辺野古新基地、自衛隊基地建設問題を扱う作品らしい。

 

 私の今回のお目当ては、映画そのものというよりは、この映画を撮った監督だった。

 とうとう再会できるのか。何年ぶりになるんだっけ。────20年か。

 あのとき9歳だった私は29歳になり、44歳だったひとは64歳になる。

 そうか。それだけの歳月が流れたのか────。

 

 

 ……あれっ、今は何年?

 ここは、どこ────?

 

1997年 代々木

「3年1組の担任は、湯本雅典先生です」

「「イェーイ!!」」

 1997年4月、渋谷区立代々木小学校の始業式。クラスのみんなが喜びの声を上げた。

 前月に8歳になったばかりの私は、4月に3年生になった。半年前に岡山から転校してきた私も、代々木の生活にも少しずつ慣れてきた。ちょっと内気な性格もあって、あまり仲のいい友達はいないけど……。

 代々木小学校は、都心ど真ん中にある小さな小学校だ。全校生徒も120人ちょっと。どの学年も、1学年20人くらい。

 担任になったのは湯本先生。ほかの学年の生徒からも「ゆもちゃん」と親しまれている、おもしろい先生として人気のおじさん先生だ。そんな湯本先生が担任だから、みんな大喜びだった。

 

 そんな湯本先生は、「おもしろい先生」である以上に「アツい先生」だということがやがてわかってきた。

  特に、朗読や演劇はすごく熱心だった。先生の感情の込め方が半端なかったのはもちろん、生徒が感情を込めて音読をすることを、積極的に奨励していた。

 登場人物になりきって朗読することは、恥ずかしいことじゃない。内気でおとなしく言いたいことの半分も言えないような私だったけど、教科書の朗読や演劇、そして、それを褒められることを通じて、少しずつ積極性が身についていった。そういう姿勢を笑うような同級生もいなかった。外国人や帰国子女も多かったことも関係あるかもしれないけど、とても恵まれていたと思う。

 

 また、詩の授業をきっかけに、クラスでは詩を書くブームが生まれた。みんながあれこれ詩を書いて先生に提出するものだから、クラスに詩の専用のポストまで作られることになった。

 ポストに入れた詩には、先生がコメントをつけて返してくれる。それだけではなかった。投稿された作品のうちのいくつかは、学級通信とは別に先生が作った詩のフリーペーパーに載せてもらえることもあった。

 フリーペーパーは、うちのクラスだけではなく職員室でも配布されていたらしい。それを読んだ音楽教師が作品に曲をつけて歌にして、音楽の授業で歌ったことも何度かあった。私が書いた詩に曲をつけてもらえたこともある。クラスで飼ってるモルモットが食いしん坊だとか、そんなことを書いた詩だったような……(笑)。

  そういえば先生は、動物の命などについての教育も熱心だった。友達関係、いじめ、不登校、命、生きもの、については特に重きを置いていたように思う。

 

 ところで、この頃の私はアトピー性皮膚炎に悩まされていた。空気や水のきれいな岡山から引っ越してきた私にとっては、都会のそれは肌に合わなかった。身体のあちこちの皮膚がただれ、顔から足まで湿疹ができ、とても汚い肌になっていた。

(ちなみに大人になった今でも都内の水道水は肌荒れするので、入浴には塩素除去の薬が欠かせません……)

「その顔や脚のぶつぶつ、気持ち悪いな」

「こいつの隣の席、なりたくねーよ」

 クラスの男子たちから、肌の汚さでいじめられるのは時間の問題だった。私の身体は、太ももの裏と顔がとくにひどいことになっていた。

「ちょっと、そういうのやめなよ、男子」

 女子は、かばってくれる子が多かったのが救いだった。

 

 ────そんなある日のこと。私の体操服袋が、男子トイレの便器の中に入れられているという事件が起こった。

 これまでも、悪口を言われたり、席を離されたり、上履きがおかしなところに置かれたり、軽く叩かれるようなことはあったが、こうやって持ち物が汚されるいじめは初めてだった。

「ひどーい!」「誰がやったんだろう」と怒りを口々に表明してくれた子がいたのは心強かった。湯本先生も、この件について真剣に向き合って下さったのが嬉しかった。そのせいなのか、「持ち物が汚されて悲しい」という気持ちには、不思議とならなかった。この体操服は先生が持ち帰り、自宅で洗って下さった。

 

 

 そんなことがありながら、やがて私たちは4年生になった。この年、私の妹も1年生として入学してきた。

 3年生から4年生になるまでのあいだに、何人かの同級生は転校していった。そのかわり、何人か新たな仲間が加わることもあった。茨城や千葉、北海道などさまざまな場所から転校生が来た。

 

 ────ある日。ずいぶん中途半端な時期に、ひとりの転校生がやってきた。それがKくんだった。

 Kくんは少しぽっちゃり体型だったこともあり、やがて乱暴な男子からいじめられるようになった。それまでクラスで一番いじめられていたのは私だったけど、どうやら、Kくんは私以上にいじめられていたようだ。

 でも、私は知っていた。Kくんは、クラスで飼っているモルモットをとても可愛がる、心優しい男の子だということを。ほかの男子とは違うな、と思っていた。

 

 

 ────そんな中、クラスのAちゃんがあまり学校に来なくなった。

 Aちゃんは私にとって憧れの女の子だった。どのくらい憧れだったかというと、彼女が小4のときにくれた年賀状のメッセージが私にとって宝物で、中学まではお守り代わりに持ち歩いていたくらい。高校時代、前略プロフの「憧れの人」には「小学校時代の同級生Aちゃん」と書いていたくらい。

 Aちゃんは劇団経験があるのか、演技がものすごく上手い。私も先生から演技を褒めてもらえることはあったけど、彼女にはかなわなかった。容姿も整っていたと思うけど(ポッキーのCMの新垣結衣に似ていると思った)、どちらかというと、独特の感性を持っていておもしろおかしなキャラクターの印象のほうが強かった。みんなを笑わせるユニークさを持ちながら、不思議で複雑な感受性をも持ち合わせた女の子。それがAちゃんだった。

 Aちゃんが学校に来なくなったことを、先生は当初はとても気にしていた。ただ、やがて「無理に学校に来るべきだとは思わない。不登校も悪いことじゃない」ということを話していた。当時の私にとっては、教師がそういうことを言うのは少し意外でもあった。

 

 

 ただ、先生は、勉強を疎かにしていいと言っているわけではなかった。基本的には、とても面倒見の良い先生だった。

 特に、Kくんの勉強はすごく気にかけていた。家庭事情もあり、勉強に取り組むのが困難なKくんの家に放課後訪れ、何人かと「じゃがいも塾」と称した学習会を行っていたようだ。このことを知ったとき、先生の熱意には胸を打たれた。

 

 また、学校での授業でも、発展的な学習のようなことを取り入れていた。代々木小や渋谷区の方針ではなく、おそらく湯本先生独自のスタイルだろう。

 たとえば、国語の教科書に載っていた「一つの花」という物語について、授業で扱ったあと、著者の今西祐行さんに連絡を取り、感想文を送っていたこともあった。

 また、社会科の授業で地域の違いについて勉強する際も、北海道と沖縄の小学校に連絡を取り、地域の特色についてクラスでビデオレターを撮って送り、交流する……ということを行っていた。北海道の小学校は、北海道から来た転校生の男の子が以前通っていた学校に連絡を取っていた。沖縄の小学校は、先生と繋がりがあるという「普天間第二小学校」に連絡を取り、ビデオレターと文通をした。

 この頃から、先生は沖縄に興味があったのかもしれない。運動会では、沖縄の伝統芸能「エイサー」を踊った。当時流行っていたブラックビスケッツの「タイミング」と、沖縄の音楽「走れサンダー」の2曲で踊った。踊りに使う太鼓も、図工の時間に手作りした。ポケモンのまねをしたオリジナルキャラを作ることがクラスで流行っていて、私も太鼓に、オリジナルキャラの絵を描いて楽しかったのを覚えている。

 そして、国語の授業では演劇もおこなった。4年生の最後の授業参観は、クラスで3グループに分かれてそれぞれの作品を上演した。私たちのグループはなかなか脚本が完成せず、放課後、先生と居残って練習をしたっけ。本番を迎えたとき「あぁ、もう放課後にみんなで練習して、こうやって演じることはないんだな」と感傷的な気分になったりもした。

 

 そんなふうにして、ようやく代々木生活にもなじんできた中、

 

 …………

 

 ────私の転校が決まった。

 

 転勤族だったから、代々木小に長くいられないことは最初からわかっていた。むしろ、5年生になったら運動会で「1000メートル走」をしなければいけないのがイヤだったので、その前に転校できることは嬉しかった。それに、代々木小は小さな学校だったから、卒業するのはどうせならもっと大きな小学校がいい、と思っていた。

 この頃の私は地図帳が大好きだった。長崎に引っ越すことが決まってからは、父がくれた資料集を眺めながら、どんなところなんだろう、と胸を弾ませていた。転校先の学校ではこれまでの引っ込み思案な私を知る人はいないから、Aちゃんみたいに振る舞えたらいいな、と思っていた。

 

 そして────1999年3月。

 年度末も近づき、私の引っ越しの日も迫ってきたある日。湯本先生から電話があった。クラスメート何人かとの、食事会のお誘いだった。

 じつは先生は、Aちゃんが不登校になってから、彼女のことを考えてくれているクラスメートを誘い、休みの日に時々ランチ会を行っていたようだった。私のことは今回「転校が決まって、最後になるだろうから」ということで誘ったとのこと。そのとき私は、かすかにショックと罪悪感を覚えた。私はずっと自分のことで精いっぱいだったけど、Aちゃんのことを気にかけていた同級生が、こんなにたくさんいたなんて。

 

 その後、クラスでは、私(と、同じタイミングで大阪に転校が決まった男子)のお別れ会も開かれた。みんな、いろんなプレゼントを持ってきてくれた。そんなこと、私たちには一切知らされていなかったからすごく驚いたけど、すごくうれしかった。

 また、「来年度はもう担任を外れるだろうから」ということで、湯本先生は、生徒ひとりひとりの似顔絵を描いた色紙を終業式の日に配っていた。似顔絵が妙にリアルで、みんなで見せ合ってはワイワイ騒いだっけ。先生は絵も得意だった。学級通信には、よくイラストが添えてあった。

 それらの色紙や思い出を抱えながら、私は代々木小学校を去った。私は3月に10歳になったばかりだった。

 

 1996年9月から、2年半通った小学校。ありがとう。とっても思い出深い学校だったよ。ありがとう、代々木のまち。

 

▲私が住んでいたこの団地は2011年に廃墟になりました。

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その後

 それからどれくらいの月日が経っただろうか。湯本先生からは、2004年頃にうちの家族あてに連絡が一度あったらしい。現在は代々木小の6年生(私の妹と同学年)の担任をしており、卒業にあたり、かつてクラスメートだった妹からもコメントをもらいたいとのことだったそうだ。

 2007年に私は大学生になり、mixiを通じて昔の同級生何人かとも連絡を取った。2008年、Kくんとも再会できた。モルモットを可愛がっていたKくんは動物関係の専門学校に進学したという。

 そういえばあのモルモットは、私が代々木に転校してくる前に、入れ違いで引っ越した女の子がクラスに持ってきたコだったと聞いた。そのモルモットが、別の転校生の男の子に可愛がってもらえ、生を全うできた。不思議な縁だな、と思った。

 かつてKくんをいじめていた同級生からも、mixi経由でKくんに連絡があり、「あのときはごめん」と謝ってくれたりもしたそうだ。

 

 その後もSNSでKくんとやりとりすることはあった。2014年のある日、「湯本先生、Facebookにいたよ」と教えてもらえた。

 アクセスしてみると、先生は教員のあり方に疑問を抱き、2006年・51歳のときに自主退職したそうだ。その後は私塾を開いたり、アマチュアドキュメンタリー映画の監督として活動しているらしい。

 その私塾の名前は────「じゃがいもじゅく」。

「!」

 じゃがいも塾、って、小4のとき、Kくんたちを集めて行っていた学習会の名前だ!

 そっか、あのときの学習会が、こんなカタチで続いたんだ……。

 そういえば、Kくんのmixiネームも「ポテトK」のような名前だったっけ。そっか、あのときのことがこんなふうに息づいていたんだ……。

 

 ちなみに、私が社会人になり名古屋で知り合った友人が「じゃがいもじゅく」について取材をしていたことがわかったり、私が卒業した佐賀の中学の同級生が、代々木小時代の同級生と友人同士だったことがわかったり、世間の狭さものちに判明……!

2019年1月 飯田橋

 そしてとうとう、お会いできる機会がやってきた。Facebookでイベント招待をいただいたのだ。ドキュメンタリー映画の上映会だ。

  とうとうお会いできるんだ、と思うと、緊張がピークに高まった。会場の最寄り駅にて、あのときの気持ちを思い出そう、と思いブラックビスケッツの「タイミング」をYoutubeで再生してみたら、運動会で踊った懐かしさに震えが止まらなくなった。

 

 あぁ、20年は長かった────。

 転校先の学校に馴染めなかった私は、何度「代々木に帰りたい」って思ったか。湯本先生からの手紙は何度読み返しただろうか。小3、4年の当時はもちろん、その後の人生で孤独感に苛まれたときも、代々木小の仲間や思い出にどれほど精神的に助けられていただろうか。私、あのころに比べると積極性が身に着いたよ! 詩のコンクールで賞もとったよ!! その後、子どもの教育、平和学習、演劇関係をきっかけにあちこちで友達ができたよ!!!

 直接的にも、間接的にも、代々木生活はどれほど私に影響を与えたことだろうか。

 その中心となった湯本先生に、とうとう20年ぶりに会える。

 

 ドキュメンタリーは、まず、選挙のシーンが私にとっては印象的だった。だれの選挙であろうと、当落の一喜一憂には胸がキュッとなる。また、沖縄の天候が気になった。曇天、雨天のシーンが多い。

 そして───約1年前に起こった、普天間第二小学校に米軍ヘリの窓が落下した事故。私は覚えていたよ。普天間第二小学校は、小4のときの地域学習でビデオレターのやり取りをした学校だ、って。

  上映会と対談が終わる。「湯本さん、」と次々にいろんなひとが、先生に話しかける。

 そうか、ほかのひとからすると「湯本先生」ではないんだな……。あのころの「ゆもちゃん」じゃ、ないんだな……。

 

「湯本先生っ!」 

  私、20年前に代々木小学校でお世話になった、……

 イベント終了後、ほかのお客さんが去るのを待ってから挨拶をした。

 小学校での演劇で鍛えたような、通る声は出せたかな、私。

 

 先生は、20年前よりも痩せていた。声も、20年前のような大きさや滑舌ではなかった。髪も白髪が増えている。20年が経つというのはそういうことなんだろう。けれど、表情には面影があった。

 

 ───よく来てくれたね。ありがとう。

 握手をし、言葉を交わす。20年ぶりだ。

 ───どのクラスだったっけ。誰がいたっけ。

 ───ほら、Aちゃんとか、Kくんとかがいたクラスです。

 ───あぁ、モルモット飼ってたクラスか。Kくんか、会いたいなぁ。

 ───Kくんも先生に会いたがってましたよ。「Facebookを見つけた瞬間、泣きそうになった。湯本先生には本当に感謝しきれないほど大好きだった。会ってお礼を言いたい」って言ってましたよ。私もです。これまであちこちの学校に行きましたが、もっとも人生に影響を与えた先生です───。

 

 ありがたいことに、私は上映会スタッフの打ち上げにもご一緒させていただくことができた。

 

 20年前、私たちの担任をしていた頃は、先生も思い悩んでいた時期でもあったという。そうだったのか。あの頃は私にとっては楽しい日々だったけど、先生にとっては、悩んでいた日々だったのか……。

 

 ───もっと若いときから映画を撮れば良かった。もう自分はあと10~20年でこの世を去るだろうけど、これからの子どもたちが生きる世界は、平和であってほしい。

 ……そっか、教員を辞めても、子どもが好きなことは昔と変わらないんだな。その点は嬉しかった。

「教員」から「映画監督」への転身か。まるで、ポケモン的な「進化」みたいだなぁ。もしかしたらこちらが本来の姿で、先生が「教員」だったのは、ある種の序章だったのかもしれないな。授業での演劇とか、ビデオレターとか、このための伏線だったのかもしれない。

 ……私は?

 この20年間で、どう成長できたかな。

 

「実は6年前にこのあたりに住んでいたことがある。そのとき、友人たちとUstream番組を作っていた。そのときに知り合った人には、映画や映像関係の仕事をしているひともいる」という話をしたら、興味をもっていただけて嬉しかった。

 

▲上映会主催の「ビデオアクト」の皆さんと。

 

 懐かしく楽しい時間はあっという間だった。飯田橋駅で解散になった。

 20年か──────

 代々木小を転校した私は、長崎、佐賀、京都、神楽坂、名古屋、とあちこちに住んだ。それぞれの地ではさまざまなことがあった。まるで、同一人物の人生を生きている気がしないくらい、バラエティに富んだ20年だった。本来は別々のひとが送るべきだった人生を、私の身体を使いまわしているような、そんな気すらしていた。

 でも───代々木時代に、私の原点はきちんと存在していて、私はひとりの人間だったんだな、ということを、どこかで受け入れられるようになった感じもあった。

 

 20年か。これからの20年は、長いのか短いのかはわからない。でも、1999年からの20年は、とてつもなく長かった。長かった。長かった。

 

 ふと、代々木小学校の校歌を聴いてみたくなった。代々木小は2015年に廃校になっており、Youtubeなどにも歌は上がっていない。

 記憶を頼りに、心の中で、私はそっと口ずさむ。

 

♪ 代々木の森から 吹く朝風は───

 

 20年前のこと。ずっと忘れないまま、これからも強く生きていこう。

 

※プライバシー配慮のため、本筋と関係のない範囲でフェイクを入れている部分があるかもしれません。出てくる名前も実際のイニシャルとは限りません。

  

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学校を辞めます―51歳・ある教員の選択

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 ▲湯本先生の著書。いわゆる退職エントリ的な。

 

風の教室 (中公文庫)

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 ▲この小説を読んだとき、ここに出てくる先生のキャラクターが、ちょっと湯本先生に似ているなと思いました。